漢書卷九十 酷吏傳第六十 義縱

寗成の家を破砕した苛烈な太守

  • 義縱、河東の人。若い頃、張次公と共に強盗を働き群盗の一味であった。縱には姉があり医術で王太后に寵愛された。太后が「子や兄弟で官に就ける者はいるか」と問うと、姉は「弟がいるが素行が悪く難しい」と答えたが、太后は上に告げ、義姁(姉)の弟縱を中郎に任じた。上党郡の令に補されると容赦のない苛烈な政をしき、県内に滞る事案がなくなり第一等の評価を得て長陵・長安の令に遷り、法を貫き貴戚を憚らず、太后の外孫脩成君の子中をも捕らえて糾したため、上はその能を認め河内都尉に遷し、着任すると穰氏一族の豪族を族滅、河内は道に遺失物なきほど治まった。張次公もまた郎として勇猛な軍功で岸頭侯に封じられた。寗成が失脚し家にいた頃、上はこれを郡守に用いようとしたが、御史大夫公孫弘が「私が山東で小吏だった頃、寗成が済南都尉であったが、その治めぶりは狼が羊を牧するようだった、成に民を治めさせてはならない」と諫め、上は成を関都尉に任じた。一年余りで関の吏が郡国出入りの者を厳しく取り締まったため「乳飲み子を抱いた虎に会うほうが、寗成の怒りに会うよりましだ」と称された。義縱は河内から南陽太守に遷り、寗成が郷里にいると聞いて関に至った際、成は道を譲って出迎えたが、縱は意気盛んで礼を返さず、赴任すると寗氏を糾弾しその家を破滅させた。成は罪に問われ、孔氏・暴氏(南陽の豪猾な旧家)も皆逃亡し、吏民は震え上がった。平氏の朱彊、杜衍の杜周は縱の爪牙の吏として重用され、廷尉史に遷った。軍がしばしば定襄に出兵し定襄の吏民が乱れたため、縱は定襄太守に遷り、着任すると獄中の重罪二百余人および密かに面会に来た賓客・昆弟二百余人までも一挙に捕らえ「死罪人を脱獄させようとした」として糾問、その日のうちに四百余人を殺した。郡中は震え上がり、悪辣な民までが吏を助けて治めに協力するようになった。当時、趙禹・張湯も九卿であったが、その治めぶりはなお法に沿った寛容さを残していたのに対し、縱は鷹が獲物を掴むような苛烈さで治めた。のち五銖銭・白金の改鋳があり民の姦利が横行、特に京師で甚だしかったため、縱は右内史に、王温舒は中尉に任じられ、温舒は極めて悪辣であったが縱に先んじて事を進めず、縱はさらに気勢を凌駕して温舒の功を潰した。誅殺は甚だ多かったが小さな治めに終始し姦は減らなかった。この頃「直指使者」(皇帝直属の巡察官)が初めて置かれ、吏の治めは斬殺・捕縛を専らとし、閻奉のような悪辣な吏まで登用されるほどであった。縱は廉直で治めは郅都に比肩したが、上が鼎湖に幸し長患いの後に急に甘泉へ幸した際、道が整備されていないのを見て「縱は朕がこの道をもう通らぬと思っていたのか」と怒り、これを含むところとなった。冬、楊可が「告緡」(財産隠匿の告発制度)を主管していたところ、縱はこれを民を乱すものとみなし、告発の使者を捕らえたため「詔令を妨げ事を妨害した」として杜式に取り調べさせ、縱は市に晒された。その一年後、張湯もまた死んだ。