孤高の廉吏にして深刻な法家
- 趙禹、斄の人。佐史として中都官に補され、廉により令史となり太尉周亜夫に仕え、亜夫が丞相となると禹は丞相史となり府中でその廉平を称されたが、亜夫は「禹は無害(誰も及ばぬ)だが法文が深刻に過ぎて大府には向かない」として重用しなかった。武帝の時、禹は刀筆吏として功労を積み御史に昇進、上はその能を認め中大夫に至らせ、張湯と共に律令を論定し「見知法」(知りながら見逃した吏を連座させる法)を作り、法をもって互いに監視させる制度がここに始まった。禹は廉潔で倨傲、吏となって以来自宅で食客をもてなさず、公卿が訪ねてきても禹は決して返礼に赴かず、知友・賓客との付き合いを絶つことに努め、孤立して独断で事を運び、法に触れた者は容赦せず、部下の隠れた罪を暴くこともしなかった。かつて廷尉を退いた後、再び廷尉に任じられた際、条侯(周亜夫)は禹を「賊深(酷薄)」と評した。禹が少府・九卿となった頃には酷急さが増したが、晩年になると事件が増え吏がますます厳峻を競う中、禹の治めぶりはかえって緩やかになり「公平」と評された。王温舒らが後に興り禹より厳しい治めを行うようになると、禹は老齢のため燕相に転じ、数年後に心が乱れ罪を得て免官帰郷、その十余年後に天寿を全うして家で没した。