漢書卷九十 酷吏傳第六十 周陽由
同僚を見下した最も暴虐な酷吏
- 周陽由、その父趙兼は淮南王の舅として周陽侯に封じられたことから周陽氏を名乗った。由は宗家の恩により郎となり文帝・景帝に仕え郡守となった。武帝即位後、吏治は謹厳を尊ぶ風潮であったが、由は二千石の中で最も暴酷、愛する者は法を曲げて生かし憎む者は法を曲げて滅ぼした。赴任した郡では必ずその豪族を平らげた。太守として都尉を令のように従わせ、都尉としては太守の権限を奪った。汲黯の意志堅固さや司馬安の法文を悪用して人を傷つける様に張り合い、共に二千石の列に在りながら同車しても敷物や肘掛けさえ均等に譲らなかった。のち由は河東都尉となり、太守勝屠公と権を争い互いに告発、勝屠公は罪に問われ刑を受けるより自殺を選び、由は市に晒された(弃市)。寗成・周陽由の後、事件が増え民は法を巧みに操るようになり、吏治の多くは成・由らの類に似たものとなった。