漢書卷八十七上・下 揚雄傳第五十七上・下 揚雄(子雲)

揚雄、字は子雲。蜀郡成都の人。学を好み博覧で、口下手ながら深く思索する性格。若くして司馬相如の賦を範とし、成帝に仕えて「甘泉賦」「河東賦」「校獵賦(羽獵賦)」「長楊賦」を奏じて諷諫を試みたが、賦の限界を悟ると賦作をやめ、深く思索して『太玄』『法言』を著した。王莽の簒位後も三代の君主を通じて官位を変えず、符命による立身出世を求めなかった学者・辞賦家。

年表(2件)
  • 元鼎年間先祖が仇を避け江を遡り㟭山南の郫県に移り住む
  • 天鳳五年71歳で死去。門人の侯芭が墳を築き三年喪に服す

出自と生い立ち

  • 揚雄、字は子雲。蜀郡成都の人。その先は周の伯僑に出て、支庶として晋の揚に采地を得て揚氏を名乗った(伯僑と周室の系譜のつながりは不詳)。揚は河汾の間にあり、周が衰えると揚氏の一人が揚侯を称したが、晋の六卿が権を争った際に逼られ、楚の巫山に逃れて家を成した。楚漢の興る頃、揚氏は江を遡って巴郡江州に居し、揚季は廬江太守に至った。元鼎年間、仇を避けて再び江を遡り㟭山の南、郫県に移り住み、田一㙻・宅一区を得て代々農桑を業とした。季から雄まで五世、一子ずつ伝わったため、蜀に雄以外の揚氏はない。
  • 雄は少くして学を好み、章句訓詁の細目にこだわらず博覧、性格は簡易で佚蕩、口吃で激しい弁舌はできず、黙して深く沈思することを好んだ。清静で欲少なく、富貴を急がず貧賤を憂えず、廉隅を修めて名を求めることをせず、家産は十金に満たず儋石の蓄えもなかったが平然としていた。大度があり聖哲の書でなければ好まず、意に染まなければ富貴でも仕えなかった。ただ辞賦を好み、蜀の司馬相如の宏麗温雅な賦を範として常にこれを擬えて作った。また屈原の文才が相如を超えながら世に容れられず自ら江に身を投げて死んだことを怪しみ、その文を読むたび涙した。「君子は時を得れば大いに行い、時を得なければ竜蛇のごとく潜むもの、遇不遇は天命、何ぞ身を投ずる必要があろうか」と考え、離騒の文をところどころ引いてこれに反論する書を作り、㟭山から江に投じて屈原を弔い、これを「反離騷」と名づけた。また離騒に倣い「廣騷」一篇、惜誦から懐沙までに倣い「畔牢愁」一篇を作ったが、この二篇の文は多く伝わらず、反離騷のみが伝わる。
  • 「反離騷」の大意は、伯僑以来の系譜と揚侯が汾隅から巫山・楚へと移った経緯を述べ、天道が塞がって純潔な人がかえって禍難に遭う理不尽を嘆き、屈原の生きた時代(成帝陽朔年間に准えて)に寄せて江湘のほとりに弔文を送り、瓊靡や秋菊を食んで延命しようとしながら結局は汨羅に身を投げた矛盾、龍が雲を待って昇るように賢者も明君を待つべきなのに自ら禍を招いたこと、傅説や孔子が不遇でも隠忍し道を全うした例を引き、屈原が由・老聃や彭咸の遺した穏やかな道を選ばず自ら命を絶ったことを惜しむ内容である。

甘泉賦

  • 成帝の時、客が雄の文才を司馬相如に似ると推薦し、上が継嗣を求めて甘泉の泰畤・汾陰の后土を祭った際、雄は承明の庭に待詔として召された。正月、甘泉から還ると「甘泉賦」を奏じて諷諫した。
  • 賦は、漢十世(成帝)が上帝を祭る盛儀を、招搖・泰陰・鉤陳などの神々を従え、蚩尤・飛廉・雲師ら八神が先駆し、玉樹・金人・鍾簴が輝く甘泉宮の壮麗、天門を排して衆神を招き入れる祭祀の様、聖徳が黄龍・碩麟などの瑞祥を招く様を、華麗な言葉を尽くして描く。末尾の「乱」(総括の辞)では天地の祐けと万世の福を寿いでいる。
  • 甘泉宮はもと秦の離宮で、武帝がさらに通天・高光・迎風などの宮観を増築し、奢侈が久しく続いていたため、雄は今さら諫めれば時宜を失し、黙せば道理に反すると考え、あえて壮麗を極端に誇張して天帝の紫宮に擬え、「これは人力の及ぶところでなく鬼神の業と言うほかない」との諷刺を暗に込めた。また時に趙昭儀が寵愛を得て甘泉行幸に常に随行していたため、車騎の盛儀を描く一方で「西王母を迎えつつ玉女・虙妃を退ける」との一句に後宮の粛正を促す戒めを忍ばせた。賦が奏上されると天子はこれを異とした。

河東賦

  • 同じ年の三月、后土を汾陰に祭る行幸に従い、雄は「河東賦」を奏じて勧めた。
  • 賦は、大河を渡って汾陰に至り、介山・安邑・龍門・塩池・歴観を巡り西岳に登って八荒を望み、殷周の墟に往時を偲び唐虞の遺風を思う道行きを描く。禹が龍門を穿ち九河を分けた治水の功、舜が歴山を耕した故事、文王の大寧などの古跡を回顧しつつ、大漢の徳が五帝三皇にも勝ることを言祝ぎ、六経を奉じて漢の盛徳を頌える終章で結ぶ。雄は成帝が先代の遺跡を巡ることを機に、自ら至治を興し帝王の風に擬えるよう勧める意図でこの賦を作った。

校獵賦(羽獵賦)

  • その年十二月の羽獵に際し、雄は上古の帝王が宮館・苑囿を郊廟・賓客・庖厨に足る程度にとどめ民の膏腴の地を奪わなかったからこそ天下が富み瑞祥が集まったと考えた。禹・成湯・文王の質素な苑囿に対し斉宣王の四十里の囿さえ大きいとされた例を引き、武帝が上林苑を宜春・鼎胡から長楊・五柞、黄山、渭水沿いまで数百里に拡張し、昆明池を穿ち建章宮・鳳闕・漸台・泰液池を造営して海上三山を象った奢侈を挙げ、たとえ一部を斉民に分与したとはいえ、羽獵の田車戎馬の儲備・禁苑の営みは堯舜文王の三驅の意に悖ると考え、後世がこの奢侈をさらに助長することを恐れて「校獵賦」を作り諷諫した。
  • 賦は、五帝三皇の質朴と対比しつつ大漢の盛徳を頌えたのち、冬十二月、天子が霊囿で狩りを行う様を描く。虞人に命じて昆明から酆鎬まで禁苑を設け、三嵏を虎落で囲み百里の獵場を構え、賁育のごとき勇士が万を数え、羽旗・雲霞のごとき車騎が林立し、雷霆のごとき軍勢が山野を席巻して禽獣を尽く狩り立てる壮観を延々と描写する。天子自ら弓を執り逢蒙・羿のごとき射術で獲物を仕留め、車騎は珍池・霊沼に集い、玉石・随珠が輝く沼のほとりで漁夫が蛟螭を捕らえ、鴻儒鉅儒が雅頌を整え四夷が朝貢に至るまでの盛儀を述べる。最後に群臣が「唐虞・成周も及ばぬ盛徳」と讃えるが、天子はなお謙譲して首肯せず、むしろ神明の囿を開いて禁苑を民に分かち農桑を勧め貧民を救うべきと結び、末尾「未だ苑囿の麗・遊獵の靡に暇あらず」として車を返す場面で締めくくる。

長楊賦

  • 翌年、上は胡人に禽獣の多さを誇示しようと右扶風に南山一帯で熊羆・豪猪・虎豹・狐兎・麋鹿などを生け捕りにさせ長楊宮の射熊館に集め、網で周阹を作って中に放ち、胡人に素手で搏たせて自ら獲物を取らせ、上自らこれを観覧した。時は農繁期で農民が収穫できなかった。雄はこの行幸に従い、還って「長楊賦」を奏上、翰林主人(雄の代弁)と客卿(諫言の相手役)の問答体で書いた。
  • 客卿は「今年の長楊の獵は農民を三旬あまり煩わせながら功として図られることがない。外には娯楽の遊び、内には宗廟に供する乾豆の実もなく、民のためではないのではないか。人君は玄黙・澹泊を徳とすべきなのに、遠出して威霊を誇示し車甲を疲弊させるのは君主の急務ではない」と疑問を呈する。
  • 主人はこれに答え、秦末の乱世から高祖が天下を平定した苦難、文帝の倹約による太平、その後匈奴・羌戎・閩越の侵犯に対し武帝が驃騎・衛青を遣わし匈奴の王廷を破り単于を屈服させた武功、二十余年の平和と今日の盛世を述べ、豊年を得て時に兵を整え武を講ずることは太宗の遺烈を奉じ文武の制度を継ぐ行いであり、後世が一時の遊猟に耽り国政を怠ることを戒めるためにこそ、あえて三王の田・五帝の虞に復し、農を妨げず婚姻の時を守らせ老を憐れみ孤を存する仁政を伴わせた上で鐘鼓の礼楽を整えることこそ真の意図であり、いたずらに稲田を馳騁し梨栗の林を蹂躙し珍禽の獲を誇ることが目的ではないと説く。客卿はこれに服し「大いなるかな、この道理、小子の及ぶところにあらず」と再拝して称賛する。

解嘲

  • 哀帝の時、丁氏・傅氏・董賢が権を用い、これに阿附する者が家を起こして二千石に至る者もある中、雄はちょうど『太玄』を草しており自ら安んじて動じなかった。ある者が「玄(黒)を作りながら位は白(無位)のまま」と雄を嘲ったため、雄は「解嘲」を作って答えた。
  • 客は「今、明盛の世に遭い群賢と肩を並べながら、一策も出さず、太玄五千言を著すのみで位は侍郎・給事黄門にとどまる、玄はかえって君を尚白(無位)にしたのではないか」と揶揄する。雄はこれに「客はわが轂を朱丹に染めることばかり望むが、一度躓けば一族が赤くなる(誅殺される)ことを知らないのか」と応じる。戦国の世は君臣定まらず、士は各々の才によって富貴・貧賤を分けた(范雎・蔡沢・孟軻・鄒衍らの例)が、今の大漢は四海を統一し法度・礼楽によって天下が治まり、士は県令・郡守に容易に登用されず、竒言竒行は疑われ罰せられる時世であること、それは「炎炎たる者は滅び、隆隆たる者は絶える」道理であり、高名の家には鬼瞰の禍があるように、位を極める者は宗を危うくし、自らを守る者こそ身を全うすると説く。范雎・蔡沢・婁敬・叔孫通・蕭何・藺相如・四皓・公孫弘・霍去病・司馬相如・東方朔ら、時に遇い功名を立てた古人の例を挙げつつ、自らはそれら数公に及ばぬゆえ黙して太玄を守るのだと結ぶ。

太玄経の述作

  • 雄は、賦は諷諫のために作るものだが、華麗な言辞に走るとかえって諷諫の効を失うと悟った(司馬相如の大人賦がかえって武帝の神仙志向を煽った例を挙げる)。以後は賦作を止め、深く渾天説を思索して『太玄』を著した。天を三分四分し八十一首・七百二十九賛を配して三巻(一・二・三)に分かち、泰初暦・顓頊暦とも通じる体系を立て、三策で占い休咎を判じ、象類を配し人事を布き五行を文にし道徳仁義礼智に擬えた。首・衝・錯・測・攡・瑩・数・文・掜・図・告の十一篇で玄の体系を解説したが、文が難解で読む者・学ぶ者ともに理解しがたかった。「玄が深すぎる」と難ずる客に応え、雄は「解難」を作り、日月・泰山の高大の例、伏羲・文王・孔子が易を作った故事、鍾子期・伯牙、師曠、老聃の言を引いて、浅薄に迎合せず深遠を尽くすことの意義を説いた。

法言の述作

  • 雄はまた、諸子百家が聖人を誹り怪迂の説を立てて世を乱し、司馬遷の史記も是非の判断が経に悖る点があるとして、論語に象り『法言』十三篇を著した。目次は次のとおり――学行第一・吾子第二・修身第三・問道第四・問神第五・問明第六・寡見第七・五百第八・先知第九・重黎第十・淵騫第十一・君子第十二・孝至第十三。各篇の序(要旨)も自ら記した。学行は倥侗顓蒙な民を教化する意、吾子は周公・孔子の道を継ぐ意、修身は身を正すことが本である意、問道は中を失わず姦罔に惑わされぬ意、問神は道徳仁義礼を論じる意、問明は聡明で天命を保つ意、寡見は近世の浅見を正す意、五百は聖人の出現の理を論じる意、先知は中和の政の要を論じる意、重黎は孔子以来の人物評、淵騫は孔子以後の人物評、君子は君子の徳を論じる意、孝至は孝の至極を親を安んじ神を安んじ四表の歓心を得ることに置く意である。

晩年と死

  • 雄は四十余歳で蜀から京師に遊学し、大司馬車騎将軍王音がその文才を奇として召し門下史とし、待詔一年余りで「羽獵賦」を奏じ郎・給事黄門となった。王莽・劉歆と並び、哀帝初めには董賢とも同官であったが、莽・賢が三公として権を傾け推挙する者を悉く抜擢する中、雄だけは三代の君主を経ても官が変わらず、莽の簒位後、符命を称え功徳を誇って封爵を得る者が多く出ても雄だけは侯にならず、老齢のまま大夫に転じただけで、権勢利得に恬淡としていた。実は古を好み道を楽しみ、文章によって後世に名を成すことを望んでいた。経は易より大なるものなしとして『太玄』を、伝は論語より大なるものなしとして『法言』を、史篇は倉頡より善きものなしとして『訓纂』を、箴は虞箴より善きものなしとして『州箴』を、賦は離騒より深きものなしとしてこれを広げ、辞は相如より麗しきものなしとして四賦(甘泉・河東・校獵・長楊)を作り、いずれもその本を斟酌し倣って書いたものであった。心を内に用いて外に求めなかったため当時の人々は皆これを軽んじたが、劉歆と范逡だけは敬い、桓譚は「絶倫」と評した。
  • 王莽の時、劉歆・甄豊はともに上公となったが、莽が符命により即位した後その原由を絶とうとしたところに豊の子尋・歆の子棻が再び符命を献じ、莽は豊父子を誅し棻を四裔に流し、事に連座した者は請わずして収監される事態となった。時に雄は天禄閣で校書中であったが、使者が雄を捕えに来ると聞き自ら免れないと考えて閣上から身を投げ、危うく死にかけた。莽はこれを聞き「雄は元来事に関与していないのになぜここまでしたのか」と問い、密かに理由を尋ねさせたところ、劉棻がかつて雄に竒字を学んでいただけで雄自身は符命の事情を知らなかったことが分かり、詔で不問とされた。しかし京師では「寂寞を守り閣より投じ、清静を保ちながら符命を作る」と雄を揶揄する言葉が流布した。
  • 雄は病により免官の後、再び大夫に召された。家は元来貧しく酒を好み、訪う者は少なかったが、好事家が酒肴を携え従学することもあり、鉅鹿の侯芭は常に雄のもとに居て『太玄』『法言』を学んだ。劉歆も嘗てこれを見て「徒に苦労するだけだ、今の学者でさえ禄利がありながら易を明らかにできないのに、まして玄をや。後人が醤瓶の蓋にでも使うのが関の山だろう」と評したが、雄は笑って応じなかった。年七十一、天鳳五年に卒し、侯芭は墳を築き三年喪に服した。時の大司空王邑・納言厳尤は雄の死を聞き桓譚に「君はつねに揚雄の書を称えるが、はたして後世に伝わるだろうか」と問うと、譚は「必ず伝わる、ただ君と私はそれを見届けられまい」と答えた。人は近くの卑俗を賤しみ遠くの高名を貴ぶもので、揚子雲の禄位・容貌をじかに見た者はその書を軽んじがちだが、老子の道徳経二篇も薄仁義非礼学と評されながら後世に高く評価されたように、揚子の書も文義深く聖人(周公・孔子)の説に違わないため、もし時の君主に遇い賢知に閲されれば必ず諸子に勝るだろうと譚は述べた。儒者の中には、雄が聖人でないのに経を作ったのは春秋の呉楚の君が僭号を称えたのと同じく誅絶の罪であると譏る者もいた。雄の没後四十余年、『法言』は大いに行われたが『太玄』はついに顕れず、しかしその篇籍は今なお具に伝わっている。