出自と若き日
- 蕭望之、字は長倩。東海蘭陵の人で杜陵に移住。代々農業を家業としたが、望之は学を好み『斉詩』を同県の后倉に十年近く学び、白奇・夏侯勝にも師事し、京師の諸儒に評判となった。大将軍霍光が上官桀らの謀反鎮圧後、警戒から謁見者の身体検査を行わせていたが、望之だけはこれを拒み「周公が士を迎えた礼にそぐわない」と諫めて引き下がり、逆に光に一目置かれた。同輩の王仲翁らは大将軍史として先に出世したが、望之は「各々その志に従うのみ」と意に介さなかった。弟の犯罪連座で一時免官となるが、御史大夫魏相のもとで属官となり、大行治礼丞を経て地節三年の雹害を機に上疏、春秋の故事(季氏専権と昭公追放)を引き「大臣が政を専らにし一族が権勢を擅にすることが災異の因」と論じ、宣帝に才を認められ謁者に抜擢された。
諫大夫から御史大夫へ
- 上書の当否を判別する任を担い、諫大夫・丞相司直を経て二千石に至る。霍氏謀反誅滅後さらに重用され、平原太守に出されるとかえって「諫官を外に出すのは本末を忘れた策」と上疏し、召還されて少府となる。左馮翊に転じた際は左遷と疑って病と称したが、宣帝の使者の説得で受け入れた。西羌反乱に伴う軍費調達を巡り、京兆尹張敞が「贖罪金による穀物拠出」を提案したのに対し、望之は「貧富で刑罰に差が生じ、道徳の乱れを招く」と強く反対、丙吉・魏相もこれを支持し提案は退けられた。左馮翊での治績により大鴻臚に昇進。烏孫との婚姻策(漢の公主を烏孫王の後継に嫁がせる件)にも「万里の外との婚姻は長策にあらず」と二度にわたり反対し、いずれも採用された。丙吉の後任として御史大夫となり、匈奴混乱に乗じた出兵論に対しては「喪に乗じて攻めるのは義に反する」と諫め、逆に使者を送り呼韓邪単于を助ける策を提言、これが採用され単于の帰順につながった。大司農中丞耿寿昌の常平倉策には反対する一方、丞相丙吉の高齢を暗に批判する上奏を行い、天子の不興を買った。
御史大夫からの左遷
- 丞相府の礼遇を巡り、丞相の使者に対して非礼な態度を取ったなどとして弾劾され、御史とも私的な便宜(家事の代行等)を図らせていた不正も指摘され、太子太傅に左遷された。その後、丞相黄霸・于定国の代となり、望之は宰相の望みを断たれる。匈奴呼韓邪単于の朝賀の礼遇を巡っては、丞相黄霸・御史大夫于定国が「諸侯王より下位に」としたのに対し、望之は「単于は正朔の及ばぬ敵国、不臣の礼をもって諸侯王の上位に置くべき」と主張し、元帝に採用された。
元帝の輔政と宦官との対立
- 宣帝の遺詔により史高(大司馬車騎将軍)・望之(前将軍光禄勲)・周堪(光禄大夫)が輔政、元帝即位後も師傅として重んじられた。劉更生・金敞らと共に古制に基づく諫言を行い、元帝はこれをよく容れた。中書に宦官を用いる旧例(宏恭・石顕)を「刑余の者を近づけるべきでない」として士人への交代を求め、史高・宏恭・石顕と激しく対立。会稽の鄭朋が望之に取り入ろうとして拒まれると恨みに転じ、宏恭・石顕と結んで望之・周堪・劉更生が朋党を組み外戚(許氏・史氏)を排斥しようとしていると誣告した。元帝即位間もない時期であったため、望之らは獄に下されたが、事の重大さに驚いた元帝により釈放され、関内侯・食邑六百戸を賜り丞相に擬されるまでに至った。
望之の死
- 子の蕭伋が上書して望之の過去の処分の不当を訴えたことが逆手に取られ、宏恭・石顕は「反省せず怨みを抱き、子に上書させて天子を非難した」として再度弾劾、望之の剛直な性格ゆえ獄吏に屈することはないと見越し、あえて逮捕の裁可を得た。天子は「蕭太傅は剛直、獄には就くまい」との懸念を示したが、宏恭らは「言語の軽罪、心配無用」と押し切り、執金吾の兵に邸を包囲させた。望之は自害を望んだが夫人に止められ、門下生朱雲の勧めに従い「六十を超えて牢獄に入り生を茍くするは恥」と鴆を仰いで自殺した。元帝は知らせを聞いて驚き食を止め涕泣し、宏恭らを責めたが処分は形式的なものに終わった。長子伋が関内侯を継ぎ、元帝は生涯、時節ごとに使者を遣わして望之の墓を祀らせた。
蕭育(附伝)――剛直な吏歴
- 望之の子で八人のうち大官に至ったのは育・咸・由の三人。蕭育、字は次君。父の任により太子庶子、後に御史、大将軍王鳳に才を認められ功曹、謁者、匈奴副校尉、茂陵令を歴任。考課で自らが下位だった際、右扶風に同僚の漆令郭舜を弁護しようとして「自分の順位もままならぬのに他人の弁護とは」と怒られ、佩刀に手をかけ「蕭育は杜陵の一男子、呼び出しなど受けぬ」と啖呵を切って辞去しようとした逸話が残る。翌日召されて司隷校尉に任じられ、以後、中郎将・匈奴使・冀州刺史・青州刺史・長水校尉・泰山太守・大鴻臚代理を歴任。右扶風として盗賊梁子政を数か月で誅滅したが、淳于長との親交により免官。哀帝期、南郡の盗賊鎮圧に功があり老臣として厚遇され、光禄大夫・執金吾を経て官途を全うして没した。厳格で威を重んじる人柄で免官・昇進を繰り返し、陳咸・朱博と若くして交わり「蕭朱結綬(蕭・朱が印綬を結び合う仲)」と称されたが、後に朱博と不和となり「交わりの難しさ」の例として語られた。
蕭咸・蕭由(附伝)
- 蕭咸、字は仲。丞相史から茂材に挙げられ好畤令、淮陽内史・泗水内史・張掖太守・弘農太守・河東太守を歴任し治績を上げ、越騎校尉・護軍都尉・中郎将・匈奴使を経て大司農で終官した。
- 蕭由、字は子驕。丞相西曹・衛将軍掾から謁者・匈奴副校尉、賢良に挙げられ定陶令、太原都尉、安定太守を歴任し治績で称えられたが、哀帝がかつて定陶王であった縁から一時庶人に落とされ、後に復土校尉・京輔都尉・江夏太守・陳留太守を経て、明堂辟雍の大朝の際に大鴻臚に召されるも病で儀に間に合わず、中散大夫で終官。一族から二千石吏が六、七人出た。
史論
- 賛:蕭望之は将相の位を歴任し師傅の恩によって天子に親昵し隔たりがなかったが、謀が漏れ隙が生じると、讒邪の徒によって陥れられ、宦官の手にかかって死んだ。哀しむべきことである。しかしその人となりは堂々として節を曲げず、儒宗としての身をもって輔佐の才を発揮した、近古の社稷の臣であった。