田延年に見出される
- 尹翁歸、字は子兄。河東平陽の人で杜陵に移住。幼くして父を失い叔父のもとで獄吏を務め、法律に通じ剣術にも優れた。市吏として公正に振る舞い商人らに畏敬された。河東太守田延年の巡視の際、集められた故吏の中で独り伏して起立せず「文武兼備、なんなりと用いよ」と応じたことで見込まれ、卒史に抜擢。姦事の摘発に手腕を示し、督郵として汾水南部を担当、廉により緱氏尉、諸郡の守丞尉を歴任し都内令、弘農都尉を経て東海太守に抜擢された。赴任の途上、廷尉于定国が同郷の子弟の便宜を頼もうとしたが、翁歸と終日語り合った定国は「賢将ゆえ私情は通じない」と諦めた逸話が残る。
東海・右扶風の治績
- 東海では県ごとに記録簿を作り吏民の善悪・姦邪を把握、秋冬の大会や巡行に合わせて悪人をまとめて処断し「一を懲らして百を戒める」統治を行った。大豪族の許仲孫を誅殺し、郡中を畏怖させ東海は大いに治まった。右扶風でも同様の手法で治め、豪強には厳しく弱小には寛容な姿勢を貫き、罪ある者は掌畜官に送り莝(飼料用の藁)を斬らせる労役を課し、成果が上がらねば鞭打ち、中には自ら首を刎ねる者も出るほど厳格だった。京師はその威厳を畏れ、扶風の治安は三輔随一となった。公卿の間では清廉・謙虚な人柄で知られたが、病を得て在職数年で没し、家に財産が無かったため、宣帝は詔してその子に黄金百斤を賜い祭祀の資とした。三子は皆郡守となり、少子岑は九卿・後将軍に至った。田延年は「人を知る」名伯楽として評された。