経歴と潁川太守
- 趙廣漢、字は子都。涿郡蠡吾の人(もと河間に属した)。若くして郡吏・州従事となり、廉潔で機敏なことで知られた。茂材に挙げられ平準令、察廉により陽翟令となり、治績により京輔都尉、京兆尹代理に昇進。新豊の杜建が昭帝陵の造営を監督する任にあって不正を働いたのを取り締まり、権門の口利きにも屈せず処断して名声を得た。昌邑王の廃立に際し議に与り宣帝擁立に功があり関内侯を賜る。潁川太守となり、豪族原氏・褚氏一党を誅して郡中を震え上がらせた。潁川では豪族同士の婚姻・朋党の風があったため、密告制度(投書箱「缿筩」)を設けて互いに疑心暗鬼にさせ悪事を暴く一方、住民同士の告発が横行する弊害も生んだ。匈奴征伐の際に召還され蒲類将軍趙充国の軍に属し、帰還後に京兆尹代理に復帰、まもなく正式に任命された。
京兆尹としての治績
- 属吏には和顔で接し功は部下に譲り、部下は心服して働いた。「鉤距」という尋問術(周辺情報から本質を推し量る手法)に長じ、盗賊・不正吏の情報を的確に把握した。長安の若者による誘拐未遂事件では、人質を取った犯人を説得して自首させ、寛大に扱って恩義で心服させる手腕を見せた。召喚状一つで遠方の亭長の不正(伝言を怠った件)まで見抜くなど、その明察は神業と評された。長安の游徼・獄吏の秩を百石に増して士気を高め、京兆の政治は清く民に慕われた。左馮翊・右扶風の管轄住民が罪を犯すと京兆の管轄に逃げ込む弊害を嘆いた。
霍氏との軋轢と失脚
- 大将軍霍光の生前は仕えていたが、光の死後、その子博陸侯霍禹の邸に踏み込み家探しをするなど貴戚を憚らぬ態度を見せ、霍皇后の訴えで宣帝の耳にも入った。以後、新進の若手・世吏の子孫を好んで用い、果断な策を専らとし、それが後の破滅の因となった。長安市で酒を売る客が丞相府の吏に追われた一件から蘇賢という男を疑って処罰し、蘇賢の父の訴えで事件が発覚、部下の禹が要斬に問われるなど広漢自身も罪に問われたが赦により秩一等の降格で済んだ。さらに蘇賢の同邑の子榮を私怨で他の罪に落として殺させ、これも露見。丞相魏相の家の侍女の自殺を機に丞相夫人の殺害を疑い、丞相府に強引に踏み込んで夫人を尋問、奴婢を拘束するなど摧辱的な振る舞いに及んだ。魏相は自ら弁明し、逆に広漢の非を訴える。司直蕭望之の弾劾により宣帝は激怒し、広漢は廷尉の獄に下される。過去の不当な殺害・軍興違反の隠蔽なども併せて問われた。吏民数万人が宮門に押し寄せ助命を嘆願したが、広漢は結局要斬に処された。清廉で豪強を抑え小民に安寧をもたらしたその治績を、百姓は長く歌に歌って偲んだ。