漢書卷七十五 眭兩夏侯京翼李傳第四十五 李尋

洪範・天文にもとづく諫言

  • 李尋、字は子長。平陵の人。尚書を治め張孺・鄭寛中と同門であったが、独り洪範五行伝の災異説と天文・月令・陰陽の学を好んだ。丞相翟方進に仕え、帝の舅で大司馬驃騎将軍の曲陽侯王根に重んじられた。当時災異が頻発する中、尋は「漢家に中衰の危機の兆しがある、洪水の災いが起こりうる」と説き、天文の配置(紫宮・太微・少微など星座の配置と人事の対応)を引いて人材登用の要諦を説き、秦の穆公が佞臣を退け百里奚を用いて覇業を成した故事を挙げ、王根一門の栄達(一門九侯二十朱輪)の盛衰を戒めた。哀帝即位後、待詔黄門に召され、災異の続発について問われた尋は「日は衆陽の長、人君の表、月は衆陰の長、妃后大臣諸侯の象、五星は五行の精で王者の号令に応ずる」との理論を展開し、日月の光の陰り・五星の逆行・彗星の出現などをことごとく朝政の乱れ(女謁・佞臣・外戚の専横)と結びつけて論じ、外戚を抑え賢士を登用すべきと繰り返し諫めた。哀帝の外家丁氏・傅氏、祖母傅太后の専横が強まる中、尋の言は容れられなかったが、水害対策のため騎都尉・護河隄使者に任じられた。

甘忠可の予言と非業の最期

  • かつて成帝の代、斉人甘忠可が『天官暦包元太平経』十二巻を偽作し「漢家は天地の大終に逢い改めて受命すべき、天帝は真人赤精子を遣わしこの道を教えた」と説き、重平の夏賀良・容丘の丁広世・東郡の郭昌らに伝えたが、中塁校尉劉向の弾劾で忠可は下獄し病死、賀良らも罪に問われた。哀帝の初め、司隸校尉解光を通じてこの説が再浮上し、劉歆は「五経に合わない」と退けたが李尋はこれを好み、夏賀良らは「漢の暦運が中衰し成帝が天命に応じなかったため嗣子を得られなかった、急ぎ改元・改号すれば災異は息み皇子も生まれる」と説いた。哀帝は長患いの末この説に従い、建平二年を太初元年と改元し「陳聖劉太平皇帝」と号し漏刻の制度も改めたが、一月余りで病状に改善はなく、大臣らの反対で改元は撤回され、賀良らは「左道をもって朝政を乱した」罪により誅殺、李尋と解光は死一等を減じられ敦煌郡に徙された。

史論

  • 賛:神明を幽賛し天人の道を通合するものとして易・春秋ほど著しいものはないが、子貢でさえ「夫子の文章は聞くことができるが、性と天道については聞くことができなかった」と言った。漢興以来、陰陽災異を論じた者として、武帝の代には董仲舒・夏侯始昌、昭宣の代には眭孟・夏侯勝、元成の代には京房・翼奉・劉向・谷永、哀平の代には李尋・田終術がおり、彼らが時の君に説いた内容もその一端を髣髴とさせるに過ぎず、経説を借り象類に依託した憶測が多い部分に的中があったに過ぎない。仲舒は下吏に落ち、夏侯勝は投獄され、眭孟は誅され、李尋は流刑に処された、これは学者への大きな戒めである。京房はわずかな地位で身の程を弁えず、危言をもって彊臣を刺激し怨みを買い、罪禍を招くまで時を要しなかった。「密ならざれば身を失う」との易の言葉どおり、悲しむべきことである。