直諫の臣
- 鮑宣、字は子都。渤海高城の人。県の嗇夫・都尉功曹などを経て孝廉に挙げられ議郎・諫大夫・豫州牧を歴任。行部の際の法駕不備で免官されたこともあったが、再び諫大夫に召され、哀帝の外戚(丁氏・傅氏)や董賢の専横に対し繰り返し上疏した。「外戚が権を持てば賢路を塞ぎ天下が困窮する、民には七つの亡ぶ理由(陰陽不和・重い賦役・貪吏の収奪・豪強の蚕食・苛政による農時の喪失・盗賊への恐れ・盗賊の掠奪)と七つの死ぬ理由(酷吏の殺害・冤罪・盗賊・怨讐・飢饉・疫病)があり、民に一つも生き延びる道がない」と痛論、董賢への過度な賞賜や汝昌侯傅商の不当な封侯を批判し、大司馬傅喜・大司空何武・丞相孔光・左将軍彭宣ら賢臣の再登用と、孫寵・息夫躬ら佞臣の罷免を求めた。日蝕・彗星などの災異のたびに上書し、哀帝は一部の意見(孔光の再任、孫寵・息夫躬の免官)を容れた。丞相孔光の行列を妨げた罪で下獄した際、太学生千余人が幡を掲げて助命を訴える騒動となり、死一等を減じられ髠鉗の刑で上党に徙された。平帝の代、王莽が権を握り豪桀や不服従の忠臣を粛清する中、宣も何武らと共に誅に遭った。
- 成帝から王莽期にかけての清節の士として、琅邪の紀逡・薛方、太原の郇越・唐林・唐尊なども並び称される。紀逡・両唐(唐林・唐尊)は王莽に仕えて封侯に至ったが、唐林は数々の直言で忠節を示し、唐尊は敝衣空履・瓦器の飲食など質素を装う虚名で知られた。郇越は千余万の家産を九族・州里に分与し、王莽の太子四友に召されたが没した際、その子は師友の贈り物を辞退した。薛方は王莽の招きに「堯舜の世にも巣父・許由がいた、自分は箕山の節を守りたい」と応じず、著述と教授で生涯を終えた。隃麋の郭欽、杜陵の蔣詡は王莽の簒奪に反対し官を退いて隠棲した。斉の栗融・北海の禽慶・蘇章、山陽の曹竟らも同様に不仕の道を選んだが、竟のみ更始帝に仕えて丞相となり、赤眉の乱で節を守って死んだ。
史論
- 賛:易に「君子の道は出処黙語(隠棲するか仕えるか、沈黙するか語るか)にある」というが、それぞれ各人の資質によって道の一節を体現するに過ぎない。山林の士は往って還らず、朝廷の士は入って出られない、両者ともに短所を持つ。春秋列国から漢の将相名臣に至るまで、禄と寵に恋着して世を誤った者は多い。だからこそ清節の士は貴い。ただし多くは自ら身を修めるに長けても人を治めることには長けなかった。王吉・貢禹の才は龔勝・鮑宣に勝り、龔勝は「守死善道」の教えをまさに体現した者、薛方は「貞にして諒ならず」の教えに近い、郭欽・蔣詡は隠遁して汚れず節を全うし、紀逡・両唐の変節とは一線を画す。