漢書卷七十二 王貢兩龔鮑傳第四十二 龔勝

清節の両龔

  • 龔勝、字は君賔。龔舍、字は君倩。共に楚の人で親交深く名節で知られ「楚の両龔」と称された。勝は郡吏を経て孝廉に三たび挙げられながら王国出身のため宿衛できず、重泉令などを歴任。哀帝は定陶王時代から勝の名を聞いており、諫大夫に召し、勝の推薦で舎も諫大夫となった。勝は上書して「百姓の貧困・盗賊の横行・吏の不良・風俗の退廃・災異の頻発」を憂え、制度の奢侈・刑罰の過酷・賦斂の過重を指摘し倹約を説いた。丞相王嘉の弾劾をめぐる朝議では、他の議者と一線を画し独自の見解を貫き、博士夏侯常との対立から弾劾の応酬にまで発展したが、勝は秩を落とされるに留まり謝罪して復した。渤海太守に任じられたが病と称して赴任せず、哀帝崩後は光禄大夫として病臥を続けた。王莽の簒奪後、講学祭酒・太子師友祭酒に召されても応じず、使者が印綬を強いて授けようとしても固辞し、「漢家の厚恩を受けた身が二姓に仕えることはできぬ」と述べて絶食し十四日で死去、享年七十九。彭城の里門にはその名が後世まで刻まれた。
  • 龔舎は楚王に招かれたが固辞し、哀帝の代に泰山太守を経て光祿大夫に至るが病と称して辞し、五経に通じ魯詩を教授した。王莽の代、五威将の巡行や使者による強要にも応じず招聘を固辞し通した。