序――逸民の系譜
- 武王が九鼎を雒邑に遷した際、伯夷・叔斉はこれを不忠不孝として退け首陽山で餓死したが、孔子は「志を降さず身を辱めなかった」と賢とし、孟子も「伯夷の風を聞けば貪夫も廉になる」と評した。漢興の後にも園公・綺里季・夏黄公・甪里先生の四皓が秦の乱を避け商雒山中に隠れ、高祖の招きにも応じず、後に呂后・留侯の計により皇太子(後の恵帝)の礼を受けて出仕し太子の地位を安定させた(詳細は留侯伝にある)。谷口の鄭子真、蜀の厳君平も俗世に染まらず身を修めた隠者で、子真は成帝の元舅王鳳の招きにも応じず、君平は成都で卜筮を業としつつ人に忠孝を説き、日に数人を占うだけで生計を立て、あとは老子・荘子を講じて著述に専念した。揚雄はかつて君平に学び、益州牧李彊が厚礼で招いても君平は動じず、九十余歳まで蜀人に敬愛された。揚雄は著述の中で「君子の名は権勢によらず徳による」として鄭子真・厳君平・楚の両龔(龔勝・龔舍)を挙げ称えた。これら未仕の隠者の風は貪欲を戒め俗を励ます効があり、王吉・貢禹・両龔のように礼をもって進退した者たちに連なる。
昌邑王への諫言
- 王吉、字は子陽。琅邪臯虞の人。孝廉に挙げられ若盧右丞・雲陽令を経て昌邑中尉となった。昌邑王賀(後の海昏侯)が遊猟にふけり動作に節度がないことを、詩経の言葉や召公の甘棠の故事を引いて諫め、王は一時反省したが後に元に戻った。それでも吉は諫争を続け、国中で敬重された。昭帝崩後、大将軍霍光が王を迎える際にも「南面の君は多言を要さぬ、喪中は特に慎むべし」「大将軍の仁厚に全てを委ね垂拱すべし」と戒めたが、王は即位後まもなく淫乱の廃位に至った。事件に連座した昌邑の群臣は皆誅されたが、吉と郎中令龔遂は忠諫を理由に減死・髠刑にとどめられた。その後益州刺史・博士・諫大夫を歴任、宣帝が武帝の故事を復活させ外戚が権勢を振るう風潮の中、吉は上疏し「聖王の徳化はまず身近な者から正すべき、朝廷・左右が正しくなければ遠くを化すことはできぬ」「一世一風俗となっているのは俗吏が礼義によらず刑法のみに頼るためで、任子の制の弊害・婚姻や服飾の僭上・列侯が公主を娶る際の風紀の乱れなど改めるべき点は多い」と論じ、儒者との議論を通じて礼制を明らかにするよう説いたが、迂遠として重んじられず、病と称して琅邪に帰った。若い頃、隣家の棗を妻が勝手に取って食べさせたことを知り離縁した逸話や、貢禹との親交(「王陽在位、貢公弾冠」の故事)でも知られる。元帝が貢禹と共に召そうとした矢先、吉は道半ばで病没した。子の駿は五経に通じ、諫大夫・趙内史・幽州刺史・司隷校尉・少府を経て御史大夫に至り、京兆尹としては趙広漢・張敞・王尊・王章に続く名声を得た(世に「前に趙張あり後に三王あり」と称された)。駿は妻の死後再婚せず、子の崇も刺史・郡守を歴任し御史大夫となったが、成帝の舅の家との縁で哀帝に不忠を疑われ左遷され、平帝の代に大司空となるも王莽政権下で病没した。王吉から崇まで四代、清廉で知られたが財を蓄えず、車馬衣服のみ贅を尽くしたため「王陽は黄金を自ら作れる」と評判された。