漢書卷七十一 雋疏于薛平彭傳第四十一 彭宣
功成り身退く
- 彭宣、字は子佩。淮陽陽夏の人。易を張禹に学び博士から東平太傅に転じ、禹の推挙で右扶風・廷尉・太原太守・大司農・光禄勲・右将軍を歴任、哀帝の代に左将軍となる。丁氏・傅氏を要職に据えたい哀帝の意向を受け、子が淮陽王女を娶った縁もあり関内侯として帰家させられた。後に光禄大夫・御史大夫を経て大司空・長平侯となるが、哀帝崩後、王莽が専権すると「三公は鼎の足のようなもの、一足でも欠ければ美実を覆す」と上書し辞任を願い出た。王莽はこれを恨み厚遇せず、宣は封国で数年後に没し諡は頃侯、子は王莽敗亡時に絶えた。
史論
- 賛:雋不疑は学問を政に活かし事に臨んで惑わず名を全うした。疏広は止足の計により辱めを免れ、その次に位する。于定国父子は鰥寡を憐れみ獄を正しく裁いた任職の臣であった。薛広徳は安車を伝える栄誉を保ち、平当は謙譲に恥を知り、彭宣は険を見て止まった、いずれも保身のみに汲々とした者とは異なる。