漢書卷六十九 趙充國辛慶忌傳第三十九 趙充國
趙充国、字は翁孫(?–甘露二年、八十六歳で薨去)。隴西上邽の人で、武帝・昭帝・宣帝の3代に仕えた将軍。七十余歳で羌討伐に自ら赴き、速戦論を退けて屯田による持久策を貫いて羌を平定し、功を部下に譲る姿勢でも知られた。営平侯。
出自と武帝への奉仕
- 趙充国、字は翁孫。隴西上邽の人で後に金城令居に移った。六郡の良家子として羽林に補せられ、沈勇にして大略あり将帥の節を好み兵法・四夷の事情に通じた。武帝の代、仮司馬として貳師将軍李広利に従い匈奴を撃ったが漢軍は包囲され食も尽きる中、充国は壮士百余人とともに包囲を突破し身に二十余の創を負った。武帝は自ら見舞い中郎に抜擢、車騎将軍長史に昇進した。昭帝の代には武都の氐人反乱を護軍都尉として鎮圧し中郎将として上谷に屯し、水衡都尉として匈奴の西祁王を捕獲、後将軍に昇り霍光と共に宣帝擁立の策を定めて営平侯に封じられた。本始年間、蒲類将軍として匈奴を討ち数百級を斬った。
先零・䍐开の羌問題
- 匈奴が十余万騎で南下した際、渠堂と称する者が漢への投降を申し出て、充国は四万騎を率い縁辺九郡に屯し単于を退けた。折しも光禄大夫義渠安国が羌を巡視した際、先零の羌豪が湟水以北への移住を願い出て安国はこれを許したが、充国は「奉使不敬」と安国を弾劾した。以後羌人は前言を口実に湟水を渡り始め、郡県は制止できなくなった。元康三年、先零は諸羌の豪二百余人と讎を解いて盟約を結び、充国はこれを「羌がかつて漢に対抗した際にも同様の手順を踏んだ、放置すれば大乱に至る」と警告した。征和五年、先零の豪封煎らは匈奴と通じ、匈奴は「漢の貳師将軍は十余万の兵とともに降伏した、羌も張掖・酒泉を共に得るべきだ」と諸羌を煽動していた。充国は「羌の狼何が単独でこの計を立てられるはずはなく、匈奴の使者が既に羌中に入り先零・䍐开が結束しつつある」と見抜き、辺兵の視察と羌の分断を進言した。両府(丞相・御史)は改めて義渠安国を遣わしたが、安国は先零の豪三十余人を桀黠として斬り羌の種人を撃ち首千余級を挙げたため、諸降羌はかえって漢を信じず反乱し、塞を犯して長吏を殺した。安国は浩亹で撃退され神爵元年春、令居まで退いた。
七十余歳での出征
- 宣帝は御史大夫丙吉に将たり得る人物を問い、丙吉が充国に相談すると充国は「私に勝る者はない」と答えた。宣帝が方略を問うと充国は「百聞は一見に如かず、兵は遠く推し量りがたい、金城に赴いて図って奏上したい、羌戎は天に逆らい滅亡は近い、憂うるに及ばない」と答え、宣帝は笑って許した。充国は金城で兵一万を集め、夜間銜枚で渡河させ、敵の誘いに乗らず慎重に進軍、諸校司馬に「羌虜には用兵の力量がない、要衝を守れば侵入は防げる」と説き、常に遠斥候・戦備堅固・持重先計を旨として西部都尉府に至り、日々士卒を饗して士気を高めた。子の右曹中郎将卬を令居に派して支援させ、䍐开の豪靡当児の弟雕庫が「先零が反乱を企てている」と密告した際、充国は雕庫を人質にせず「罪ある者だけを誅し、無辜を殺さぬ」と諸羌に告げ、離間策を進めた。
先零攻撃をめぐる論争
- 酒泉太守辛武賢は速戦を主張したが、充国は董通年と共に「武賢の分兵急襲策は遠路・輜重の困難から必敗する」と反論し、先零の罪のみを問い䍐开の過ちは不問に付す慎重策(撫緩の策)を上奏した。公卿の議論は武賢案を支持し、許延寿を強弩将軍、辛武賢を破羌将軍に任じ、璽書で充国を叱責したが、充国は屯田による持久策を貫き上書で反論、羌の内情や漢の財政負担を詳細に論じて出兵の不利を説いた。中郎将卬が朝命に従わぬ充国を憂え使者を送ったが、充国は「先の見立てを誤らせたのは丞相・御史の判断であり、羌の乱を招いたのは義渠安国の失策だ、忠言は死をもっても貫く」と述べ、屯田奏を上奏した。屯田の利点十二か条(威徳並行・羌の分断・農業の維持・軍費節減・辺境の威武誇示・材木利用・降虜の増加・逸をもって労を待つ計・危険の回避・威武の温存・河南羌の平穏維持・鮮水路の確保)を挙げ、宣帝の再三の下問にも理を尽くして答え続けた結果、当初三割程度だった賛同がしだいに増え最後には八割に達し、丞相魏相も充国の計を支持した。宣帝はついに充国の策を容れつつ、破羌・強弩の両将軍と中郎将卬にも出撃を許す折衷策をとり、両軍は羌の降兵をそれぞれ得た。翌年、充国は上奏し、羌本来約五万のうち斬首七千六百・降者三万千二百・溺死餓死五六千・残余約四千との集計を示し、屯田を終えて凱旋した。
功を譲る姿勢と最晩年
- 友人の浩星賜は「破羌・強弩両将軍の武功が称えられているが、有識者は羌が窮迫していたため出兵せずとも自ら服したはずと見ている、将軍は帰還したら功を二将軍に譲るべき」と勧めたが、充国は「兵事は国家の大事、後世の模範となるべきもの、老臣として利害を明言せねば誰が言うのか」と述べ、そのまま実情を奏上した。宣帝はその計を是とし、辛武賢は酒泉太守に戻された。その後、羌の若零・離留・且種・児庫らが先零の大豪猶非・楊玉を斬り四千余人を率いて降ったため封侯され、金城属国が置かれた。充国は病のため護羌校尉の推薦に関与できず、辛武賢の弟湯が任じられたが酒による粗暴のため充国は不適任を進言、その懸念通り湯は羌人を怒らせ反乱を招いた。中郎将卬は張安世の不興を買った旧事を漏らしたことで免官・自殺に追い込まれた。充国は乞骸骨し安車駟馬・黄金六十斤を賜って第に帰り、以後も四夷の議には常に諮問された。八十六歳、甘露二年に薨じ諡は壮侯。子孫は一時国が絶えたが元始年間、曾孫の伋が営平侯に再封された。成帝の代、西羌に警戒が生じた折、天子は充国を偲び黄門郎揚雄に肖像への頌を作らせ、周の方叔・召虎になぞらえて讃えた。