出自と辺境での功績
- 辛慶忌、字は子真。父の任により右校丞となり長羅侯常恵に従い烏孫赤谷城に屯田し、翕侯との戦で陥陣却敵の功を挙げ侍郎、校尉に累進し焉耆国屯田を経て金城長史・茂材から郎中騎将(原文「車騎将軍」は衍字と考証されるが底本のまま記す)を歴任、張掖太守・酒泉太守として功績を著した。成帝の代に光禄大夫、左曹中郎将、執金吾を歴任するが、父武賢と趙充国家との旧怨から子が趙氏を殺した罪に連座して酒泉太守に左遷され、後に大将軍王鳳の推薦で再び光禄大夫・執金吾となるも小法に連座して雲中太守に左遷、その後光禄勲に復した。丞相司直何武は「慶忌は行義修正柔毅敦厚、辺郡で数々の武功を挙げ外夷にまで知られた人物、爪牙の官に据え不虞に備えるべき」と上疏し、慶忌は右将軍・左将軍を歴任した。居処は恭倹・節約であったが車馬だけは華美を好んだという。年老いて官にあるまま卒し、子の通・遵・茂もそれぞれ護羌校尉・函谷関都尉・水衡都尉として将帥の風を継いだ。
辛氏一族――王莽による粛清
- 元始年間、安漢公王莽は慶忌の子三人が有能であることから親交を結ぼうとしたが、水衡都尉茂は甄豊・甄邯の新貴に十分な敬意を払わなかった。当時外家衛氏が京師を追われる中、護羌校尉通の子次兄が帝の従舅衛子伯と親しかったことから甄豊・甄邯は「辛氏が陰で衛子伯と通じ安漢公を快く思っていない」と讒言し、司直陳崇の弾劾を経て王莽は通父子・遵・茂兄弟および南郡太守辛伯らを誅殺し、辛氏はこれによって廃絶した。慶忌自身はもとより狄道の人で昌陵の民籍にあったが昌陵が廃されて後は長安に留まっていた。
史論
- 賛:秦漢以来、山東は宰相を、山西は将帥を輩出するという。秦の白起・王翦、漢の甘延寿・公孫賀・傅介子・李広・李蔡・蘇建・蘇武・上官桀・趙充国・辛武賢・辛慶忌ら、いずれも勇武で名を挙げた。中でも蘇武・辛慶忌父子は節義で知られる。山西(天水・隴西・安定・北地)は羌胡に接する地勢のため民は戦備を尊び弓馬に長じ、秦詩に詠われた尚武の気風は今なお歌謡に残っている。