昌邑王廃立の功と讒言による誅
- 楊敞は華陰の人である。大将軍幕府に仕え軍司馬となり霍光に厚く愛され次第に大司農にまで遷った。元鳳中、稲田使者の燕蒼が上官桀らの謀反を知り敞に告げると、敞は素より謹畏な性質で言い出せず病と称して臥し、諫大夫杜延年に告げた。延年がこれを上聞し、蒼と延年は共に封じられたが、敞は九卿でありながら直ちに言わなかったため侯に封じられなかった。のち御史大夫に遷り王訢に代わり丞相となり安平侯に封じられた。
- 翌年、昭帝が崩じ昌邑王が徴されて即位したが淫乱であったため、大将軍霍光は車騎将軍張安世と謀り王を廃し立て替えることとした。議が定まると大司農田延年に敞へこの旨を報告させたところ、敞は驚懼し何も言えず汗が背に流れるばかりで唯々と応じるのみであった。延年が更衣に立った際、敞の夫人が急いで東廂から現れ「これは国の大事、今、大将軍の議は定まり九卿を遣わして君侯に報せてきたのです、君侯が速やかに大将軍と心を同じくして応じなければ、先に誅されますよ」と言った。延年が更衣から戻ると敞夫人と延年が言葉を交わし、敞は承諾し大将軍の教令を奉ずることとし、共に昌邑王を廃し宣帝を立てた。宣帝即位から一月余りで敞は薨じ諡は敬侯。子の忠が嗣ぎ、敞が位にあって定策し宗廟を安んじた功により封戸三千五百を益された。忠の弟が惲である。
- 惲は字を子幼といい、忠の任子として郎となり常侍騎に補せられた。惲の母は司馬遷の娘である。惲は初め外祖父の太史公記を読み『春秋』に精通し、材能により称され英俊の諸儒と交わりを好み朝廷に名が知られ、左曹に抜擢された。霍氏の謀反を惲がいち早く知り侍中金安上を通じて上聞し召見されて詳細を述べたことで霍氏は誅せられ、惲ら五人はみな封じられ惲は平通侯となり中郎将に遷った。
- 郎官の旧例では郎が銭を出して財用に充て文書を給する仕事があり「山郎」と呼ばれ、病を移して一日休めば一沐(休暇)を償うが、時に一年余りも沐を得られない者もあった。豪富な郎は日々遊戯し銭を出して良い部署を得るなど賄賂が横行し互いにこれに倣った。惲は中郎将となると山郎を廃し、財用の調度は一括して大司農に移して官費で賄い郎から取り立てないようにし、疾病や休暇・洗沐はすべて法令通りとした。郎・謁者に罪過があればただちに奏免し、成績優秀で徳行ある者は郡守・九卿にまで推挙したため、郎官はこぞって自ら励み請謁・貨賂の弊風を断ち令行禁止で宮殿内は一つに治まった。これにより惲は諸吏光禄勲に抜擢され重用された。
- 初め惲は父から財産五百万を受け封侯の際にはこれを宗族に分け与え、のち継母には子がなく死後その財産数百万もすべて惲に贈られたが、惲はこれもまた昆弟に分け与えた。二度にわたり合わせて千余万の財を受けながらこれをみな施したその軽財好義ぶりであった。惲は殿中で廉潔で私なく郎官からも公平と称されたが、自らその行いと治世の能力を誇り、性質は刻薄で人の隠し事を暴くことを好み、自分に逆らう者は必ず害そうとし、その能力の高さを鼻にかけたため朝廷で多くの怨みを買い、太僕の戴長楽と仲違いしついにこれが原因で身を滅ぼした。
- 長楽は宣帝が民間にあった頃からの旧知で、即位後に抜擢され親近されていた。長楽が宗廟の儀を代行した後、掾史に「私は親しく天子に見え詔を受け帝の代行をした、副えて秺侯(金安上の子)が御(車の御者)を務めた」と自慢げに語った。ある者が長楽の不適切な発言を上書告発し廷尉に下されると、長楽は惲が人に教唆したと疑いこれもまた惲の罪を告発した。折しも高昌侯の車が北掖門に突っ込む事件があり、惲は富平侯張延寿に「先に奔車が殿門に突き当たり門が折れ馬が死んだとき昭帝が崩じた、今また同じことが起こった、これは天の時であって人力ではない」と語った。
- 左馮翊の韓延寿が罪に問われ獄に下された際、惲は延寿を弁護する上書をした。郎中の丘常が「君侯が韓馮翊を弁護されたと聞きます、活かせるでしょうか」と問うと、惲は「事はそう容易ではない、真っ直ぐな者が必ず全うできるとは限らない、私自身も自らを保てるか分からない、真人(正直な者)とはいわゆる『鼠は穴に容れずして窶数を銜える』者のことだ」と答えた。また中書謁者令の宣が単于の使者の言を諸将軍・中朝二千石に示した際、惲は「冒頓単于は漢の良い食物を得ると『臭くて悪いものだ』と言ったという、単于が来朝しないのは明らかだ」と評した。惲は西閣に上って画かれた人物を見て桀紂を指さし樂昌侯王武に「天子がここを通れば一言でも桀紂の過ちを問えば良い師となろう」と言った。画にある堯舜禹湯を称えず桀紂を挙げたのである。惲は匈奴からの降者が単于が見殺しにされたと語るのを聞き「不肖な君主のもとで大臣が善策を進言しても用いられず身の置き所を失う、秦の時のように小臣ばかりを任じ忠良を誅殺すればついに滅亡する、もし親任すべき大臣を用いていれば今に至っただろう、古と今は同じ穴の狢だ」と語り、亡国を引き当世を誹謗する無礼な発言をした。
- さらに長楽に「正月以来天が陰って雨が降らない、これは『春秋』が記す夏侯君(夏侯勝)の言うところだ」と語り、「(天子の)行幸はきっと河東に至らない」と主上を戯言の対象にする悖逆の発言をした。事は廷尉に下され、廷尉の于定国が糾問し証言が明白であったため惲は罪を認めなかったが、宣は戸将の尊を召し富平侯延寿を戒め「太僕(惲)は死罪に値する事が数件ある、朝暮に迫った人物だ、惲は幸い富平侯と姻戚関係にあるが、今三人だけで語ったこの言葉について証言する際は聞いていないと言ってほしい、これは太僕とも関わることだ」と持ちかけようとしたが、尊が拒むと惲は怒って大刀を持ち「富平侯の証言のせいで一族処罰されることになったら」と述べ「私の言葉を漏らして太僕に他の罪を増やされないようにしろ」と語った。
- 惲は九卿・諸吏宿衛の近臣として上の信任を得政事に与りながら忠愛を尽くさず妄りに怨望し訞悪の言を発した罪は大逆不道とされ逮捕治罪が請われたが、上は誅すに忍びず詔して惲・長楽を庶人に免じた。惲は爵位を失い家居し産業を治め邸宅を起こし財で自らを娯しませたが、一年余り後、友人で安定太守の孫会宗が、大臣が廃退した際は門を閉じ惶懼し憐れみを乞う態度を取るべきで、産業を治め賓客を通わせ称誉を求めるようなことをすべきでない、丞相の子として若くして朝廷に顕れながら一朝にして曖昧な言葉で廃されたのだからと戒める書を送った。
- 惲は内心不服のまま会宗に返書し、「惲は材乏しく行い穢れ文質いずれも取り柄なく、先人の余業に頼り宿衛に備わり時変に遭い爵位を得たがついにその任にあらず禍に遭った、足下は私の愚蒙を哀れみ教督の書を賜り厚情に感謝するが、足下は始終を深く考えず俗の毀誉に従っているに過ぎない、鄙陋な私見を言えば足下の意に逆らい過ちを飾ることになるかもしれないが、黙って自らを守るだけでは孔子の『各々爾の志を言え』の義に背く」と述べた。「惲の家が隆盛だった頃、朱輪(高官の車)に乗る者十人、位は列卿・爵は通侯であったのに、この時に徳化を宣揚することもできず群僚と心を合わせ朝廷の遺忘を輔けることもできず、竊位素餐(禄泥棒)の責を負い続けた、禄を懐き勢を貪り自ら退くこともできず変故に遭い横に口語(讒言)を被り身は北闕に幽され妻子は獄に満ちた、あのとき自らは夷滅されても償いきれぬと思ったのに、まさか首領を全うし先人の墓を再び奉じられるとは思わなかった、聖主の恩は量りきれない」と述べた。
- 「君子は道に游び楽しんで憂いを忘れ、小人は身を全うすることを喜んで罪を忘れる、私はすでに過ちが大きく行いも虧けたことを思い、長く農夫として世を終えるつもりだ、だから妻子を率い耕桑・灌園に力を尽くし産を治め公上に納めている、まさかこれがまた譏議の種になるとは思わなかった」と述べ、「人情の止められぬところは聖人も禁じない、君父は至尊至親でありながら葬送にも限りがある、臣が罪を得てすでに三年、田家の労苦の中、伏臘(節句)には羊を煮て羔を炙り一斗の酒で自らを労う、我が家はもと秦の出で秦声を歌い、妻は趙の女で瑟が巧く、奴婢の歌い手も数人おり、酒後耳が熱くなれば天を仰ぎ缶を叩き烏烏(秦の俗謡)と唱う」と述べ、「田を彼の南山に、蕪穢にして治めず、一頃を種うるも豆落ちて萁と為る、人生は行楽あるのみ、富貴を須つは何れの時ぞ」の詩を引き、「この日は衣を払って喜び袖を奮い足を踏み舞う、まことに淫荒無度で自らそれが不可であることも知らずにいる」と述べた。
- さらに「惲は幸い余禄あり安く買い高く売り什一の利を追う、これは賈豎(商人)の卑しい行いだが、惲は自らこれを行い、汚辱の身として下流の人々の毀りが集まり寒くもないのに震える思いだ、惲を知る者もみな風に随い靡くように毀りに同調する、称誉など望むべくもない、董仲舒の言うところ『明々と仁義を求めなお民を化しきれぬかと恐れるのは卿大夫の意、明々と財利を求めなお困乏を恐れるのは庶人の事』という、故に道異なれば相謀らず、今更足下は卿大夫の制で私を責めるのか」と反論した。「西河は魏の土地で文侯の興した地、段干木・田子方の遺風があり節概を持ち去就の分をわきまえた地だが、足下は最近旧土を離れ安定に赴任した、安定は山谷の間の昆戎の旧地、子弟は貪鄙という、これは習俗が人を移すというものだろうか、今こそ子(会宗)の志が見えた気がする、まさに漢の盛んな今、旃(勉めよ)、多くを語る必要はない」と皮肉を込めて結んだ。
- 惲の兄の子・安平侯譚は典属国となり、惲に「西河太守の建平侯・杜延年は前に罪過で出されたが今、御史大夫に徴され、侯の罪は軽く功もあるからまた用いられるでしょう」と言うと、惲は「功があって何になる、県官(朝廷)のために尽力するに足りない」と答えた。惲は素より蓋寛饒・韓延寿と親しく、譚が「県官は実にそうだ、蓋司隷・韓馮翊はみな尽力した吏だったのに共に事に坐して誅された」と応じた。折しも日食の変が起こり、騶馬猥佐の成という者が上書して惲が驕奢で過ちを悔いず日食の咎はこの人物のせいだと告発した。奏は廷尉に下され調査の結果、会宗宛ての書簡が見つかり、宣帝はこれを見て怒った。廷尉は惲を大逆無道と断じ腰斬、妻子は酒泉郡に徙された。譚は諫めなかった罪、惲に呼応し怨望の言をなした罪に坐し庶人に免ぜられ、成は召されて郎を拝された。惲と親しかった未央衛尉韋玄成・京兆尹張敞・孫会宗らはみな免官された。