漢書卷六十六 公孫劉車王楊蔡陳鄭傳第三十六 王訢

繡衣御史の追及を逃れ丞相へ

  • 王訢は済南の人である。郡県の吏として功を積み被陽令に遷った。武帝末年、軍旅がしばしば発せられ郡国に盗賊が群起し、繡衣御史暴勝之が斧を持ち軍興(軍事非常時)の法により二千石以下を誅して回った。勝之が被陽を過ぎ訢を斬ろうとした際、訢はすでに衣を解いて質(まな板)に伏し、仰いで「使君(勝之)は生殺の柄を専らにし郡国に威を震わせておられます、今また訢一人を斬っても威は増しますまい、時に寛大にして恩貸を示し尽力させる方が良策でしょう」と述べた。勝之はその弁に感じ入り誅さず、これを機に訢と結び厚遇し、帰ると訢を推薦した。訢は徴されて右輔都尉となり右扶風を代行し、上がしばしば安定・北地に幸する際、扶風の宮館・馳道の整備・供張の準備をよく行い、武帝はこれを嘉して車を止め訢を正式に拝した。訢は十余年在任し、昭帝の時、御史大夫となり車千秋に代わり丞相となり宜春侯に封じられた。翌年薨じ諡は敬侯。子の譚が嗣ぎ列侯として昌邑王を廃し宣帝を立てる議に与り封戸三百を益された。譚が薨じ子の咸が嗣ぎ、王莽の妻はこの咸の娘であったため、莽の簒位後も宜春氏は外戚として寵を受けた。訢の伝国から玄孫の代、莽の敗亡に至りついに絶えた。