漢書卷六十四 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳第三十四 賈捐之

賈捐之(字は君房、賈誼の曾孫、?―?)。元帝即位当初に上疏して待詔に召された。珠崖郡の反乱をめぐる評議で撃つべきでないと建言し、珠崖放棄を実現させた。のち長安令楊興と共に石顕・楊興を推薦する上奏を作ったことが露見し、石顕の讒言により獄に下され棄市となった。

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  • 初元元年珠崖の反乱をめぐる評議で撃つべきでないと建言し、珠崖放棄を実現させる

珠崖放棄論

  • 賈捐之は字を君房といい賈誼の曾孫である。元帝の即位当初、上疏し得失を述べ待詔に召された。武帝は南越征討の元封元年、儋耳・珠崖の二郡を南方海中の洲に立てた。広さ千里ほどで十六県・戸二万三千余を合わせたが、その民は暴悪で自ら阻絶の地であることを恃みしばしば吏の禁を犯し、吏もまた酷薄に扱ったため数年に一度、吏を殺す反乱が起こり漢はその都度発兵して平定した。郡設置から昭帝始元元年までの二十余年間に六度反乱があり、始元五年には儋耳郡を廃し珠崖に併合した。宣帝神爵三年に珠崖三県が再び反乱し、その七年後の甘露元年には九県が反乱し、いずれも発兵して平定した。元帝初元元年、珠崖はまた反乱し諸県が相次いで叛いて年を経ても定まらなかった。
  • 上と有司は大軍を発して討つことを議したが、捐之は撃つべきでないと建議した。上は侍中駙馬都尉の楽昌侯王商に捐之を詰問させ「珠崖が内属して郡となって久しい、今、叛逆したのに撃つべきでないとは、蛮夷の乱を助長し先帝の功徳を損なうことになる、経義ではどう処すべきか」と問うた。捐之は「臣は幸いにも明盛の朝に遭い、忌諱なき危言(直言)の策を蒙りました」と前置きし、堯舜の盛徳、禹すら聖域に入っても優ならずと孔子が評したこと、堯・舜・禹の三聖の徳をもってしても地は方数千里に過ぎず、教化を望む者だけを治め望まぬ者を強いて治めなかったこと、殷の武丁・周の成王の大仁の時代も地は江・黄より西、氐羌より東、蛮荊より北、朔方より南に及ばなかったが頌声が並び興り万物がその生を楽しんだこと、越裳氏が九たびも通訳を重ねて貢いだのは兵革によるものではなかったことを述べた。
  • しかし衰運に至ると南征還らず(昭王の例)、斉桓公がその難を救い(襄王の位を定めた例)、孔子がその文を正し(夷狄の僭称を貶めた春秋の筆法)、秦に至って遠征を興し外を貪り内を虚しくし地を広げようとしてその害を慮らなかった結果、天下は潰畔し禍は二世の末に極まり、長城の歌は今なお絶えないと述べ、漢の初興が百姓のために命を請い天下を平定し文帝に至って武を偃せ文を行ったことで獄事は数百に減り賦は男子一人あたり三年に一度で済んだこと、文帝が千里の馬を献じられても「鸞旗前に在り属車後に在り、吉行日に五十里、師行三十里、朕千里の馬に乗って独り安んじて何処に行くのか」と述べ馬を返し以後の献上を禁じたこと、こうした後宮を盛んにせず佞人を用いず倹約を旨とした徳が「孝文」の諡と「太宗」の廟号を得た所以だと述べた。
  • 対して武帝の元狩六年には太倉の粟が腐って食べられぬほど、都内の銭は紐が朽ちて数えられぬほど富んでいたが、平城の恥辱を忘れず冒頓以来の辺害を数え、兵を蓄え馬を励まし富民をもって夷狄を攘い、西は安息まで諸国と連なり、東は碣石を過ぎ玄菟・楽浪を郡とし、北は匈奴を万里退け新たに営塞を興し、南海を制して八郡としたが、これにより獄訟は万を数え民の賦は数百に及び、塩鉄・酒榷の利で用度を補ってもなお足りず、寇賊が並び起こり軍旅がしばしば発せられ、父は戦死し子は傷つき、女子が亭鄣を守り孤児が道で泣き、老母寡婦が涙をのんで哭し、遠く虚しく祭を設け万里の外の魂を想う有様となり、淮南王は虎符を盗写し隠密に名士を招き公孫勇らが使者を詐称する事件も起きた、これはみな地を拡げ征伐を休めなかった結果だと述べた。
  • 今、天下は関東しか残っておらず関東でも大なるは斉楚のみで、民は久しく困窮し離散し道に相枕する有様、人情は父母を親しまず夫婦を楽しまず妻を嫁がせ子を売る者すら出て法も義も止められない、これは社稷の憂いであると述べ、陛下が悁悁の忿りを忍ばず士衆を大海の中に駆り立て幽冥の地で快心を得ようとするのは饑饉を救い元元を保全する道ではないと諌めた。『詩』采芑の「蠢爾たる蛮荊、大邦を讎と為す」を引き、聖人が起てば夷狄は後に服し、中国が衰えれば先に叛くことは古来の患いであり、まして南方万里の蛮をなおさら討つ必要があろうか、と述べた。駱越の人は父子が同じ川で沐浴し鼻で飲む習俗で禽獣と変わらず、もとより郡県を置くに値しない地で、一海の中に孤立し霧露が多く毒草毒虫が水土に害を及ぼし、虜が戦わずとも兵士が自ら死ぬ有様であり、珠崖だけに珠・犀・瑇瑁があるわけでもなく、棄てても惜しくなく撃たずとも威は損なわれない、その民は魚鼈のようなもので貪るに足りないと述べた。
  • さらに、羌との軍事で一年足らずの遠征で四十余万万銭を費やし大司農の銭が尽き少府の禁銭で補った例を挙げ、一隅の不善にすらこれほどの費用がかかるのに、まして労師遠攻で士を失い功もない事業をなおさらだと述べ、往古の例に合わず当今にも便でない以上、冠帯の国でなく禹貢や春秋の統治対象でもない珠崖は用いる必要がないとし、珠崖を棄て関東の憂いを専らにすることを勧めた。上はこの対を丞相・御史に諮り、御史大夫陳万年は撃つべしとしたが、丞相于定国は「先に発兵し連年撃ったが護軍都尉校尉丞十一人のうち帰った者は二人、卒士・転輸の死者は万人以上、費用三万万余で未だ全て降せていない、今、関東は困乏し民を動かしがたい、捐之の議が正しい」と述べ、上はこれに従った。
  • 詔して「珠崖の虜が吏民を殺し叛逆したことに議者は撃つべし守るべし棄つべしと各々異なる意見を述べるが、朕は日夜考えるに、威を恥じて行われねば誅そうとし、疑いを恐れ難を避ければ守屯田をと、時変に通じれば万民を憂う、万民の飢餓と遠蛮を討たぬこととどちらが危険が大きいか。宗廟の祭も凶年には備えを省くもの、況んや不嫌の辱を避けるのになおさらだ。今、関東は大いに困窮し倉庫は空虚でこれ以上民を賑わすものがない、さらに兵を動かせば民を苦しめるだけでなく凶年にも重なる」と述べ珠崖郡を罷め、義を慕い内属を望む民は望む所に安置し欲せぬ者には強いないこととした。珠崖はこうして廃止された。
  • 捐之はしばしば召見され進言が多く採用されたが、当時中書令の石顕が権勢を握っており、捐之がしばしば石顕の短所を語ったため官を得られず、のち召見されることも稀になった。長安令の楊興は新たに才能をもって寵を得ており捐之と親しかった。捐之は召見を望み興に「京兆尹の欠員に私が推されれば君蘭(楊興の字)は京兆尹に立てられよう」と持ちかけ、興は「陛下はかつて興が薛大夫(薛広徳)に勝ると言われた、私は助けやすい、君房(捐之の字)は天下随一の名文家だ、尚書令にすれば五鹿充宗よりはるかに優れている」と応じた。捐之は「私が充宗に代わり君蘭が京兆となれば、京兆は郡国の首、尚書は百官の本、天下は真に大治し士は隔てられなくなる」と語り、平恩侯(許嘉)や期思侯を将軍・諸曹に推薦すべきだと言い、その通りにいくつも実現した。また謁者の満宣を冀州刺史に推し中謁者・宦者の職掌への不当な関与を指摘するなど、興は「これでまた君房の推薦の効き目が見えたな」と語り合った。
  • 興は「私はまた石顕の悪口を君房に言わせよう」と考え、「顕は今まさに貴を極めようとしている、上が信任しているから、しばらく私の計に従いこの人の意にも合わせよう」と持ちかけ、捐之は興と共に石顕を薦める上奏文を作り「石顕はもと山東の名族で礼義の家柄、正を持すること六年間過ちなく事に明敏で、公門を出ればすぐ私門に入り妄りに交遊しない、関内侯の爵を賜り兄弟を諸曹に引き立てるべきだ」と述べた。さらに楊興を薦める上奏では「長安令興は父母に事えるに曾子の孝あり、師に事えるに顔回・閔子騫の才あり、栄名は四方に聞こえ茂材列侯の第一に挙げられ長安令として吏民に敬われている、その筆は董仲舒、談は東方朔、諫は汲黯、武は冠軍侯、治民は趙広漢、公を抱き私を絶つことは尹翁歸に並ぶ、興はこの六人の徳を兼ね備え国の良臣である、京兆尹を試みに授けるべきだ」と述べた。
  • 石顕はこれを聞き上に告げ、上は興・捐之を獄に下し、皇后の父・陽平侯禁に顕と共に糾問させた。奏は「興・捐之は詐偽を懐き上意を借りて相風諭し互いに推薦し合い大位を得ようとし、省中の語を漏らし上を誣いて不道である」とし、『書』の「讒説行いを殄ち朕の師を震驚す」「王制に順わざれば澤あるも聴かずして誅す」を引き法のとおり論じることを請うた。捐之はついに棄市となり、興は死一等を減じられ髠鉗の刑(頭を剃り鉄鎖をつけて城旦の労役)に処された。興は成帝の時、部刺史にまで至った。

史論

  • 賛にいう。『詩』(魯頌閟宮)に「戎狄是れ膺つ、荊舒是れ懲す」とあるように、久しく諸夏の患いであった。漢が興り胡越への征伐は最も盛んであった。淮南・捐之・主父偃・厳安の議論を深く究めれば切実で明白であるゆえ、その言をここに詳しく論じた。世は公孫弘が主父偃を排し張湯が厳助を陥れ石顕が捐之を讒じたと称するが、その行跡を見れば、主父偃は鼎で煮られることを求めて族滅を得たに等しく、厳助・賈捐之は禁門に出入りし権利を招いて死んだのであり、いずれも自ら招いた結果と言える。何の排陥の恨みがあろうか。