漢書卷六十四 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳第三十四 王襃
王襃(字は子淵、蜀の人、生没年不詳)。宣帝の時、益州刺史王襄に見出され頌詩の才を認められ、朝廷に召されて『聖主得賢臣頌』を作り待詔となった。のち諫大夫に抜擢され、皇太子(元帝)の病を歌詩の誦読で癒したことでも知られる。益州へ神を祀る使いに出た道中で病死した。
年表(1件)
- 神爵・五鳳の頃益州刺史王襄に見出され、中和・楽職・宣布の詩を作る
聖主得賢臣頌
- 王襃は字を子淵といい蜀の人である。宣帝の時、武帝の故事に倣い六蓺群書を講論しあらゆる竒異を好む中、楚辞を能くする者を求め九江の被公を召し誦読させたが、さらに高材の劉向・張子僑・華龍・柳襃らが金馬門で待詔となった。神爵・五鳳の頃、天下は殷富で嘉応がしばしばあり上は歌詩を作り協律の事を興そうとし、丞相魏相が知音で雅琴に巧みな者として勃海の趙定・梁国の龔徳を推薦し召された。折しも益州刺史の王襄が衆庶に風化を宣べようと王襃の俊才を聞き相見え、中和・楽職・宣布の詩を作らせ、好事者に鹿鳴の声で歌わせた。汜郷侯何武が童子として歌に選ばれ、のち武らが長安の太学で学ぶ折その歌が上聞され宣帝は武らを召見し帛を賜った。
- 襃は刺史のために頌(中和楽職宣布詩)とその伝(解釈)を作り、益州刺史はこれにより襃を逸材として奏した。上は襃を徴し『聖主得賢臣頌』を作らせた。襃は「旃を荷い毳を被る者とは純綿の麗密を語りがたく、藜を羹とし糗を唅む者とは太牢の滋味を論じがたい、臣は僻遠の西蜀に生まれ窮巷・蓬茨の下で育ち遊観広覧の知もなく至愚極陋の身に過ぎず厚望に応えるに足りませんが、あえて愚を略陳し情を抒べます」と前置きし、『春秋』五始の要(元・春・王・正月・公即位)は己を審らかにし統を正すことに帰すると述べた。
- 賢者は国家の器用であり、任じる者が賢であれば取捨は省け功は広く施される、器用が利であれば力少なく効果は多い、鈍い器を用いる工人は日々骨身を削るが、巧みな冶工が干将の樸を鋳て清水で鋒を焼き入れし越の砥石で刃を研げば水中の蛟龍も陸の犀革も一瞬で断ち切れる、優れた工と用いる道具が相得れば高台も乱れず作れる、というたとえを用い、庸人が駑馬を御せば口を傷め鞭を敝らせても進まぬが、王良・韓哀のような御者が良馬を操れば電光のように駆け千里を一息で行き人馬相得るとし、絺綌の涼を着る者は暑さを苦にせず貂狐の暖を着る者は寒さを憂えないように、賢人君子を得ることこそ聖王が海内を治める道であると説いた。
- そして開かれた寛裕の路で天下の英俊を招くべきこと、知を竭くし賢に附く者は必ず仁策を建て人を索め士を求める者は必ず覇業の跡を樹てること、周公が一飯三吐哺・一沐三握髪の労を惜しまなかったから囹圄空しき隆盛があり、斉桓公が庭燎の礼を設けたから匡合の功があったことを挙げ、君主は賢を求めるに勤め人を得れば安逸だが、臣もまた同様で、賢者が遭遇せぬうちは謀を用いられず信も得られず、伊尹は鼎爼を負って湯に、太公は屠を鼓して周に、百里奚は自ら鬻ぎ、寧戚は牛に飯を与えながらそれぞれ遇された、明君聖主に遇えば忠を尽くし術を行い、疏賤から本朝へ登り、卑辱を離れ膏梁を享け、符を剖き壌を錫われ祖考を光らせ子孫に伝えられると論じた。
- 「世に必ず聖知の君があって後に賢明の臣があり、虎嘯けば風冽しく龍興れば雲を致すごとく、聖主必ず賢臣を待って功業を弘め、俊士も明主を俟って徳を顕す。上下俱に驩然として交り欣び千載壹たび合すれば論説疑いなく、翼として鴻毛が順風に遇うがごとく沛として巨魚が大壑に縦にするがごとし。得意すればいかなる禁も止まり令も行われぬはずがない」と述べ、聖主は徧く窺わずとも視は明らかで、頃く傾けずとも聴は聡いとし、恩は祥風に従い徳は和気と遊び、太平の責が満ち優游の望みが得られる、雍容として垂拱し永く万年たり、彭祖や王僑赤松のような仙術に頼らずとも眇然として俗を絶し世を離れうると結び、『詩』文王の「済済たる多士、文王以て寧し」を引いて賢臣を得ることの意義を締めくくった。
- 上は神仙を好んでいたため襃の対はこれに及ぶところがあり、上は襃・張子僑らを待詔とし共に狩猟に随行させては行幸先の宮館ごとに歌頌を作らせ優劣に応じて帛を賜った。議者はこれを淫靡不急とする者が多かったが、上は「博奕をする者があるではないか、これをするのは何もしないよりましだ」と孔子の言を引き、辞賦は大なるものは古詩と義を同じくし小なるものも辯麗で楽しめ、女工の綺縠や音楽の鄭衛と同様に耳目を娯しませるが、なお仁義風諭や鳥獣草木への博識という点で倡優博奕よりはるかに優れると述べた。のち襃は諫大夫に抜擢された。太子(元帝)が体調を崩し物忘れがちで楽しまなかった時、襃らを太子宮に侍らせ朝夕竒文や自作を誦読させると病は快復した。太子は襃の作った『甘泉』『洞簫頌』を喜び後宮の貴人にも誦読させた。のち方士が益州の金馬碧鶏の宝を祭祀で得られると言うため宣帝は襃を遣わし祀らせたが、襃は道中で病死し上はこれを惜しんだ。