漢書卷五十四 李廣蘇建傳第二十四 李陵
字は少卿、李広の孫。騎射に優れ、屯辺の勇士五千を率いて匈奴単于の本隊を衝く別動隊を志願した武将。天漢二年、浚稽山で数万の匈奴に包囲され力戦したが矢が尽きて降伏、一族は誅殺された。匈奴では右校王として厚遇され、旧知の蘇武の説得にも帰国を拒み、元平元年に匈奴の地で病死した。
出自と武功
- 李陵、字は少卿。侍中・建章監となり騎射に優れ、人に謙り士を下ることで名声を得た。八百騎で匈奴二千余里の奥に深入りし地形を偵察して帰還、騎都尉となり酒泉・張掖で勇敢な五千人を訓練した。貳師将軍李広利の大宛遠征に際し輜重を運ぶ後詰を務め、天漢二年、貳師が酒泉から左賢王を攻める際、陵に輜重を担わせようとしたが、陵は武臺で武帝に「私が率いる屯辺の兵は皆荊楚の勇士・奇材・剣客であり、単独の一隊として蘭干山南へ進み単于の兵を分散させたい」と願い出た。武帝が「騎兵は割けないが」と応じると、陵は「歩兵五千で単于の本陣に迫ります」と豪語し許された。彊弩都尉路博徳を陵軍の後詰に配することとなったが、博徳は先の伏波将軍としての体面から陵の後塵を拝することを恥じ「秋は匈奴の馬が肥え戦いにくい、春まで待つべき」と上書。武帝は陵が翻意したのではと疑い、九月に陵を出発させ遮虜鄣から東浚稽山、龍勒水を経て受降城へ抜ける行軍を命じた。
浚稽山の激戦
- 陵は歩兵五千を率い居延から北へ三十日行軍、浚稽山に至り単于の三万騎に包囲される。武剛車を陣に組み鼓と鉦で進退を号令、千の弩を一斉に放って敵を退けたが、単于は八万余騎を集めて再攻撃。陵軍は戦いつつ南へ退き、傷の重さに応じて輦や車に乗せ、士気の衰えに軍中の女子(従軍していた盗賊の妻たち)を斬って引き締めた。連弩で単于自身を射て退かせ、山谷や葭葦の湿地帯で火攻めを凌ぎつつ転戦、なお数千の匈奴を殺傷した。単于は「これは漢の精鋭、これ以上進めば伏兵があるかもしれぬ」と一時撤退を考えたが、逃亡した陵の部下管敢が「陵軍にはもう後詰も矢もなく、成安侯(韓延年)の八百人が最後の主力に過ぎない」と密告したため、匈奴は総攻撃を再開。矢が尽き車も捨てて刀のみで山道を進むが、単于軍の投石攻撃で多数が死し、陵は夜に単身出て「丈夫たる者、自ら単于を討つ」と言うが果たせず、「兵敗れて死すのみ」と嘆く。旌旗・宝物を地中に埋め、糒と氷を持たせて散り散りに脱出を図るが、韓延年は戦死、陵は「陛下に見える顔がない」と述べて降伏した。塞に生還したのは四百余人のみ。武帝は陵の母・妻を見て死相なしと判断したが、投降と知ると激怒し、陳歩樂(陵の様子を報告した将)は自殺、群臣は陵を非難した。
司馬遷の弁護と一族誅殺
- 武帝が太史令司馬遷に問うと、遷は「陵は親孝行で士に信あり、身命を賭して国難に殉じる気概の持ち主。今回の敗戦だけで保身に汲々とする臣が陵の短所をあげつらうのは痛ましい。歩兵五千に満たぬ兵で数万の敵を引きつけ千里を転戦し矢が尽きるまで戦った功績は名将にも劣らない」と弁護したが、これが逆に武帝の怒りを買い、遷は宮刑に処せられた。武帝は後悔し陵の救援を怠ったことを悔いたが、あらかじめ路博徳に迎えを命じていた経緯が老将の姦計を招いたとして自らを責めた。使者を送り生還者を慰労したが、公孫敖が「捕虜の証言では李陵が単于に漢軍への備え方を教えている」と誤って報告したため、陵の一族は誅殺された(実際に匈奴に兵法を教えたのは別の投降者李緒であった)。陵は自分の家が李緒の罪で誅されたことを痛み、人を送って李緒を刺殺させたため、単于の母大閼氏に恨まれ命を狙われたが単于に匿われた。大閼氏の死後、単于は陵を右校王として自分の娘を娶らせ、投降していた衛律は丁靈王となった。
蘇武との再会と最期
- 昭帝の代、大将軍霍光・左将軍上官桀の要請で、旧知の隴西の任立政ら三人が匈奴に使わされ李陵を招くが、単于の目前では言葉を交わせず、目配せと刀環を撫でる仕草で帰国を促した。李陵は「漢はすでに大赦し天下は安楽、上は若く霍光・上官桀が政を執っている」と聞かされても答えず、後で「胡服になってしまった」と応じるのみで、「丈夫たる者、再び辱めを受けるわけにはいかぬ」と帰国を拒み、匈奴に二十余年留まって元平元年に病死した。