漢書卷五十二 竇田灌韓傳第二十二 韓安國

出自と若年

  • 韓安国、字は長孺、梁の成安の人(後に睢陽に移る)。鄒の田生に韓子雑説を学び、梁孝王に仕えて中大夫となる。呉楚の乱では張羽とともに東の防衛にあたり、張羽が力戦、韓安国は持重の構えを守ったため、呉軍は梁を突破できず、乱平定後、韓安国・張羽の名は大いに顕れた。

梁王の弁護

  • 梁孝王は景帝の至親であることから自ら相・二千石を任じ、出入りの行列も天子に准ずるほど僭越であった。景帝はこれを不快に思い、太后もそれを察して梁の使者を怒って会おうとせず、王の所業を糾そうとした。韓安国は大長公主(景帝の姉)に泣訴し、「梁王は呉楚七国の乱の折、太后・帝を思い、涙ながらに送り出した六人の将で呉楚軍を撃退し、漢のために大功を立てた。それを些細な礼の欠如で咎めるのは、梁王の忠孝を汲んでいない」と訴えた。長公主がこれを太后に伝えると太后は喜び、帝に伝えるよう頼んだ。景帝の心も解けて謝罪し、梁の使者を厚遇した。以後、太后・長公主は韓安国に千余金を賜り、韓安国は漢の朝廷に重んじられるようになった。

蒙の獄と再起

  • 後に法に触れ蒙の獄に下り、獄吏田甲に辱められた。安国は「死んだ灰も再び燃えぬとは限らぬぞ」と言うと、田甲は「燃えたら小便をかけてやる」と嘲った。まもなく梁の内史が欠員となり、漢の使者が韓安国を内史に任じたため、田甲は逃亡した。安国は「出頭せねば一族を滅ぼすぞ」と命じ、肉袒して謝った田甲を「お前ごときと本気で争うものか」と笑って許した。

公孫詭・羊勝事件

  • 梁の内史が空席の折、梁孝王は新たに得た斉人公孫詭を悦び内史に据えようとしたが竇太后の意向で韓安国が内史となった。公孫詭・羊勝は梁孝王に帝の太子となることや封地拡大を求めさせ、漢の大臣の反対を恐れて密かに人を使い漢の実力者や旧呉相爰盎らを暗殺させた。景帝はこの計画を知り公孫詭・羊勝の逮捕を命じたが、梁国中を捜索しても月余り見つからなかった。安国は二人が王の元に匿われていることを知り、王に泣いて「主君が辱められれば臣は死ぬ。大王に良臣なくこの事態を招いた。羊勝・公孫詭が捕らえられぬなら、どうか私に死をお与えください」と訴えた。梁王が「なぜそこまで」と問うと、安国は「太上皇と高帝、臨江王と景帝の関係を大王はどう見るか」と問い、梁王が「及ばない」と答えると、安国は「太上皇は高帝の実の父でありながら、高帝が『三尺の剣を提げて天下を取ったのは朕である』と言って以来、太上皇は政に口出しできなかった。臨江王も一言の過ちで太子を廃され、宮垣を侵した罪で自殺に追い込まれた。天下を治めるには私情を交えぬものだ。今大王は諸侯の身で邪臣の甘言に惑わされ禁を犯している。天子は太后のために大王への処罰をためらっているが、もし太后が亡くなればもう庇う者はいない」と説いた。梁王は涙を流して謝り、その日のうちに公孫詭を出頭させ、公孫詭・羊勝は自殺した。これにより漢との関係は修復され、これはすべて韓安国の功であった。景帝・太后はますます安国を重んじたが、孝王薨後、共王の代に法に触れ失官、家居した。

武帝朝の昇進と匈奴政策

  • 武帝即位、武安侯田蚡が太尉となり権勢を得ると、安国は五百金を贈って推挙され、太后・武帝にもかねて賢とされていたため北地都尉に、次いで大司農に昇進。閩越・東越が互いに攻め合った際は大行として派遣されたが、王恢の軍が到着する前に東越が王を殺して漢に降り、兵は引き上げた。その年、田蚡が丞相、韓安国が御史大夫となる。匈奴が和親を求めてきた際、朝議にかけられた。大行王恢は「和親しても数年で必ず破約される、むしろ撃つべきだ」と主張。安国は「千里の彼方まで遠征しても利は得られない。匈奴は遊牧の民で捕らえがたく、その地を得ても広さの足しにならず、その民を得ても強さの足しにならない。上古以来服属したことがなく、遠征すれば人馬が疲弊し、敵は万全の態勢でこちらの疲弊を突く。和親が得策」と説き、群臣の多くが安国に賛同し、武帝は和親を許した。

韓安国・王恢――馬邑の役

  • 翌年、鴈門馬邑の豪族聶壹が王恢を通じて「匈奴は和親して間もなく漢を信用している。利で誘い出して伏兵で急襲すれば必ず破れる」と献策。武帝が群臣に諮ると、王恢は「昔、全代の頃でさえ北の強胡と対峙しつつ国内を治め侵略されなかった。今の漢の威勢をもってすればなおさら撃つべきだ」と主張し、安国は「高祖が平城で匈奴に七日間包囲され食にも窮した故事、劉敬を遣わし和親して以来五代の利益を得た故事、文帝も広武に精兵を集めながら尺寸の功もなく再び和親した故事」を挙げ、「聖人は天下のために私怒で公の功を損なわない」と反論。両者は「五帝は礼を継がず三王は楽を重ねなかった、時宜に応じるものだ」「利は十倍でなければ事業を変えず、功は百倍でなければ常道を変えぬ、遠方不毛の地を煩わす必要はない」等、応酬を重ねた末、王恢は「秦の穆公・蒙恬の故事、匈奴は威をもって服させるべきで仁では治まらない、今の漢の富強をもってすれば匈奴を破るのは容易い」と主張、安国は「兵法にいう『飽きて待ち、治まって乱を待ち、休んで疲れを待つ』の理、遠征の困難、糧食の枯渇」を説いたが、王恢がなお「今回は深入りせず、単于を辺境に誘い伏兵で急襲する策だ」と説明すると、武帝はついに王恢の議に従い、聶壹を偽って匈奴に亡命させ単于に馬邑の城を売る計略を持ちかけさせた。単于はこれを信じ十万騎を率いて武州塞に侵入。漢は李広・公孫賀・王恢・李息・韓安国らを将とし三十余万の伏兵を馬邑近くの谷に潜ませたが、単于は馬邑に至る百余里手前で異変を察知し引き返した。王恢・李息は単于の輜重を襲う別動隊であったが単于本隊がすでに引き返したため撃たず、漢軍は追撃するも及ばなかった。武帝は王恢が単于の輜重だけでも撃たなかったことに怒り、王恢は「単于の本隊三万に対し味方も三万、勝ち目はなく、退けば陛下の兵三万を無傷で保てる」と弁明したが聞き入れられず、廷尉は逗撓(進撃をためらった)罪で斬に当てた。王恢は丞相田蚡に千金を贈り取りなしを頼んだが、田蚡は表立って言わず太后に「王恢を誅せば匈奴のために仇を討ってやるようなものだ」と伝えさせた。武帝は太后からこれを聞いて「馬邑事件を発案し天下の兵数十万を動かしたのは王恢自身だ。単于を捕らえ損ねたとしても、輜重を撃てば士気の慰めにもなったはず。それすらせず誅さねば天下に申し訳が立たない」として斬に処すこととし、王恢はこれを聞いて自殺した。

丞相代行と晩年

  • 韓安国は大略があり、時勢を見極める知恵に富み、忠厚な性格ながら財利を好んだ。しかし推挙する人材は皆自分より廉潔な賢者ばかりで、梁で挙用した壺遂・臧固ら他の人物も皆天下の名士であり、士人にも慕われ、天子からも国器と目された。御史大夫となって五年、丞相田蚡が薨去し安国が丞相事を代行するが、天子の車を先導中に落馬して足を挫き、丞相就任は見送られて平棘侯薛沢が丞相となった。安国は病で免官後も足を治して数ヶ月で復帰し中尉、さらに衛尉となる。衛青らが匈奴を撃ち龍城を破った翌年、匈奴が大挙して代・鴈門などに侵入。安国は材官将軍として漁陽に屯していたが、捕虜が「匈奴は遠くへ去った」と言うのを信じ、農繁期でもあることから屯兵を解く上奏をした。ところがひと月余り後、匈奴が大挙して上谷・漁陽に侵入。安国の砦にはわずか七百余人しかおらず出撃して敗れ、千余人と家畜を奪われた。武帝は安国を責め、東の右北平への左遷を命じた。かつて御史大夫・護軍将軍として匈奴征伐の中心にいた安国は、衛青ら新興の将軍が功を挙げて次々昇進する一方、自らは疎まれ将屯にも失敗を重ね、恥じ入って左遷をむしろ幸いとするほど気落ちしていた。さらに東へ移されて意気消沈し、数ヶ月後に病んで血を吐いて死去した。壺遂は太史令司馬遷らとともに漢の律暦を定め、詹事にまで昇り、深く篤実な君子として武帝が丞相にと目していた矢先に病死した。

史論

  • 賛:竇嬰・田蚡はいずれも外戚として重んじられ、灌夫は一時の決断(父の仇を討つべく呉軍に突入したこと)によって名を顕し、三人とも卿相に並ぶ地位を得て大業も定まったかに見えた。しかし竇嬰は時勢の変化を知らず、灌夫は術策なく不遜、田蚡は貴きを恃んで驕り高ぶった。三者の凶徳が絡み合い、時機を得て破局に至ったのである。藉福ごときが仲裁に立ったところで、この破滅は救えなかった。韓安国もまた見識と器量を高く評価されながら、絶頂の時に躓き、衰えのうちに憂いて死んだ。人の遭遇には運命というものがあり、悲しいことである。王恢が兵の発案者として咎めを一身に受けたのも、天命ではなく自ら招いたことであろう。