漢書卷五十二 竇田灌韓傳第二十二 灌夫
灌夫(字は仲孺)は潁陰の人。呉楚の乱での父の戦死に憤り決死の突撃で武勇を天下に知られた。剛直で任侠を旨とし、失脚した竇嬰と厚く結んだが、田蚡との酒宴での衝突から不敬の罪に問われ、一族もろとも誅殺された。
出自と武功
- 灌夫、字は仲孺、潁陰の人。父張孟はもと潁陰侯灌嬰の舎人であったが灌嬰に取り立てられ二千石にまで至り、灌氏の姓を冒して灌孟と名乗った。呉楚の乱で潁陰侯灌嬰の子が将軍として太尉に属した際、灌孟は校尉に、灌夫は千人を率いて父とともに従軍した。灌孟は年老いてなお強いて出陣させられ、不満から常に敵陣深く突入し、ついに呉軍中で戦死した。漢の軍法では父子ともに戦死の功があれば喪を伴って帰郷できたが、灌夫はこれを拒み「呉王か将軍の首を取って父の仇を報いたい」と、甲を着け戟を執り、志願する壮士数十人を募って呉軍に突入。ただ二人と従者十余騎のみが敵の大将旗のもとまで達し、数十人を殺傷したが押し戻され、灌夫自身も大きな傷十数箇所を負いながら奇跡的に一命をとりとめた。この功で天下に名を知られ、潁陰侯の推挙で郎中将となる。後に法に触れ免官、長安の諸公に評価されて代の相に復帰。武帝即位後は淮陽太守、後に太僕となる。長楽衛尉竇甫と酒席で乱れ竇甫を殴打し、太后の一族を殴った罪で燕の相に左遷、その後も法に触れ免官された。灌夫は剛直で酒に酔うと気を荒立て、貴戚には媚びず、身分の低い者にはかえって礼を尽くし、多くの士に重んじられた。文学は好まず任侠を旨とし、一度約したことは必ず守った。交わる者は皆豪傑・大猾で、家産は数千万、食客は日々数十百人。田園・宗族・賓客を頼みに潁川で権勢を振るい、「潁水清くば灌氏は安寧、潁水濁らば灌氏は族滅」という童謡が潁川で歌われるほど怨まれた。灌夫が家居する頃、かつての賓客は次第に離れていったが、竇嬰が失脚するとむしろこれに寄り添い、竇嬰・灌夫は互いに引き立て合う仲となった。
竇嬰・灌夫・田蚡――交友と対立の発端
- 灌夫が喪中の折、田蚡が「仲孺と一緒に魏其侯を訪ねたい」と持ちかけると、灌夫は喪を理由に断ろうとしたが、田蚡が「かまわず来い」と言うので竇嬰に取り次ぎ、竇嬰夫妻は牛酒を買い足し徹夜で酒食の支度をした。しかし翌日昼になっても田蚡は現れず、竇嬰が使いを出して迎えに行かせると、田蚡はもともと戯れに約束しただけで来る気がなかった。灌夫は激怒し、酒宴でも田蚡に杯を勧めた際に立とうとしない田蚡へ言葉で当てこすり、竇嬰が慌てて取りなして事なきを得た。その後、田蚡が藉福を通じて竇嬰の城南の田を求めたが、竇嬰は「老いぼれても勢いで奪われてなるものか」と拒絶。灌夫がこれを聞いて田蚡の使者・藉福を罵倒すると、藉福は両者の不和を憂え田蚡には穏便に取り繕ったが、田蚡はかえって「かつて竇嬰の子が人を殺した際わしが救ってやったのに、田数頃を惜しむとは」と怒り、竇嬰・灌夫への不信を募らせた。元光四年春、田蚡は灌夫の潁川での横暴を上奏しようとしたが、灌夫も田蚡が淮南王から賄賂を受けていた隠し事を握っており、双方の賓客が仲介して一旦は和解した。
酒宴の衝突と誅殺
- その夏、田蚡は燕王の娘を娶り、竇太后の詔で列侯宗室が皆祝いに集まった。竇嬰は灌夫を誘うが、灌夫は「酒の失敗で丞相との仲がこじれている」と渋る。竇嬰が「もう和解した」と強いて連れ出した。酒宴で田蚡が寿を祝う際は皆席を降りて跪くのに、竇嬰が祝う際は故人(旧知)だけが席を半分だけ降りる程度であった。灌夫が田蚡に酒を注ぐと、田蚡は膝をついたまま「一杯分は飲み干せない」と断り、灌夫は怒りながらも「将軍は貴人ゆえ、ぜひ飲み干して頂きたい」と食い下がったが、田蚡は応じなかった。続いて臨汝侯灌賢に酒が回ったとき、灌賢は程不識と耳打ちしていて席を降りなかったため、灌夫は「日頃程不識をくさしておきながら、今日は長者の祝いの席で女子供のように耳語するとは」と罵った。田蚡は「程・李両将軍はともに東西両宮の衛尉。程将軍を大勢の前で辱めれば、李将軍の立場もなくなる」と灌夫をなだめようとしたが、灌夫は「今日首を刎ねられても構わぬ、程だ李だ知ったことか」と応じない。座は白け、人々は次々と席を立って去った。竇嬰も灌夫を連れて退出しようとしたが、田蚡は「これはわしが灌夫を甘やかしすぎた咎だ」と怒り、騎兵に命じて灌夫を留め置かせた。藉福が仲を取り持とうと灌夫の首を押さえて謝らせようとしたが、灌夫はますます反発。田蚡はついに灌夫を「宗室を罵倒する不敬」の罪で長史に命じて弾劾させ、居室(獄舎)に繋いだ。以前の罪も洗い出され、灌氏一族はことごとく捕らえられ棄市の罪に問われた。竇嬰は面目を失い賓客を使って救おうとしたが、田蚡の息のかかった者ばかりで果たせなかった。竇嬰の妻は「丞相と太后の家に逆らって助かるはずがない」と諫めたが、竇嬰は「侯の位は自分の代で得たもの、自分の代で失っても悔いはない。灌仲孺一人を死なせて自分だけ生き延びるつもりはない」と、家人に隠れて上書し、召し入れられて灌夫の酒の上の過ちを弁じた。武帝は「東朝(太后の御前)で議論させよう」とし、竇嬰は東朝で盛んに灌夫を弁護、田蚡は逆に灌夫の横暴を並べ立てて竇嬰を「他事にかこつけた誣告」と決めつけた。竇嬰はやむなく田蚡の短所を挙げると、田蚡は「天下太平なのに、わしは肺附(外戚)として音楽・狗馬・田宅・倡優を好むだけだ。魏其や灌夫は日夜天下の豪桀を集めて議論し、内心で朝廷を誹り天を仰ぎ地に指し示して不穏な動きをしている」と反論した。武帝は群臣に是非を問い、御史大夫韓安国は「灌夫は父の死に殉じ呉軍に突入した天下の壮士。酒席の争いだけで誅すべきではないが、灌夫が潁川で横暴を働いたのも事実で、丞相の言い分も一理ある。明主のご裁断を」と両論を述べた。主爵都尉汲黯は魏其が是と述べ、内史鄭当時も一旦は魏其を支持したが後で言を翻した。他の誰も答えなかったため武帝は怒り、鄭当時を「日頃は魏其・武安の是非をあれこれ言うくせに、今日の廷論では轅の下の馬車馬のように縮こまるとは」と叱責。武帝はいったん退席して太后に食事を勧めるが、太后はすでに使いを出して様子を探っており「私が生きているのに人が我が弟をないがしろにする。私の死後は皆に食い物にされよう」と怒って食事を拒んだ。武帝は「二人とも外戚(竇嬰は景帝の従舅の子、田蚡は太后の同母弟)ゆえ廷議にかけたまでだ、そうでなければ獄吏一人で決着する話だ」と謝った。郎中令石建も両者の言い分を弁じた。田蚡は退朝後、御史大夫韓安国を車に乗せ「お前は私と一緒になって、あの禿げ頭の老いぼれ一人(竇嬰)を相手にどうしてぐずぐずと日和見をするのか」と怒った。韓安国は「あなたはなぜ謙譲を示さないのか。魏其があなたを謗るなら、あなたは冠を脱ぎ印綬を返して『自分は肺附ゆえ幸いに官を得たに過ぎず、魏其の言はみな正しい』と言えばよい。そうすればかえって主上に重んじられ、免官もされまい。魏其の方こそ恥じ入って自ら舌を噛み切って死ぬだろう。今は人が謗れば謗り返すとは、まるで商人や女の言い争いではないか」と諭し、田蚡も過ちを認めた。
竇嬰・灌夫――誅殺
- 武帝は御史に命じて竇嬰の上奏(先帝の遺詔の件)を調べさせたが、灌夫の罪状と食い違いが多く見つかり、竇嬰は都司空に繋がれた。竇嬰はかつて景帝から「不便があれば便宜をもって上奏せよ」との遺詔を受けていたと訴えたが、その詔書は竇嬰の家にしか保管されておらず尚書には控えがなかったため、「先帝の詔を偽った不敬罪」として棄市に処された。五年十月、灌氏一族もことごとく誅殺。竇嬰はしばらくして自分への弾劾を知り、いったんは死を覚悟して病と偽り絶食するが、赦免されるとの噂を聞いて食事を再開し養生していた。しかしそこへ悪意ある流言(田蚡が仕組んだとされる)が広まり、十二月晦日、渭城で棄市となった。翌春、田蚡は全身が激しく痛み誰かに打たれるかのように苦しみ「謝ります、謝ります」と叫び続け、まもなく死去した。武帝が霊媒に見させたところ「魏其侯と灌夫が共に取り憑いて笞打っている」とのことであった。田蚡の子恬が後を継ぐが元朔年間に罪を得て免ぜられた。
竇嬰・田蚡――淮南王事件との関わり
- のちに淮南王劉安の謀反が発覚した際、かつて田蚡が太尉として霸上で淮南王を出迎え「上にまだ太子がなく、大王が高祖の孫の中で最も賢い。もし帝が崩じられれば大王を措いて誰が立とうか」と煽り、淮南王が金銭を厚く贈ったことも露見した。竇嬰・灌夫の一件でも田蚡が理不尽な扱いをしたのは太后の威を借りたに過ぎなかったことから、武帝は「武安侯が生きていれば一族皆殺しにするところだった」と述べた。