漢書卷五十二 竇田灌韓傳第二十二 田蚡

田蚡は孝景の王皇后の同母弟。武帝即位で武安侯に封ぜられ、竇太后没後は丞相として専権を振るい奢侈を極めた。灌夫との酒宴の衝突を機に竇嬰・灌夫を死に追いやったが、その翌春に病んで急死した。

年表(3件)
  • 武帝即位武安侯に封ぜられ、竇嬰と交代で太尉となる
  • 建元二年竇太后の怒りにより丞相・太尉を免ぜられる
  • 建元六年竇太后崩御にともない丞相となる

出自と若年

  • 田蚡は孝景の王皇后の同母弟。長陵の人。竇嬰が大将軍として権勢盛んな頃、田蚡はまだ身分の低い諸曹郎で、竇嬰の酒席に侍り子のように振る舞っていた。景帝晩年になって田蚡は次第に貴顕となり、中大夫となる。弁が立ち、盤盂諸書に通じていた。

田蚡・竇嬰――丞相交代と儒術推進

  • 武帝即位。田蚡は王皇后の弟として武安侯に、弟の勝は周陽侯に封ぜられた。田蚡は新興の権勢のもと賓客に謙り、無位無官の名士を推挙して重んじ、諸将相を凌ごうとした。丞相衛綰が病免となると、藉福が田蚡に「魏其侯は久しく世に重んじられており、あなたが今丞相になれば魏其侯に恨まれる。むしろ魏其侯を推せば、次はあなたが太尉となる。太尉と丞相は尊さで並び、しかも賢を譲った名声も得られる」と説き、田蚡はひそかに太后を通じて武帝に諷し、竇嬰が丞相、田蚡が太尉となった。藉福が竇嬰に祝いを述べつつ「善人に慕われる一方悪人にも妬まれる。どちらも受け容れねば早晩失脚する」と忠告したが、竇嬰は聞き入れなかった。竇嬰・田蚡はともに儒術を好み、趙綰を御史大夫、王臧を郎中令に推挙し、魯の申公を迎えて明堂設立を図り、列侯を国に就かせ、関所の税を除き、喪服の制を定めるなど新政を推し進めた。だが竇太后は黄老を好み、二年、御史大夫趙綰が「東宮(太后)に奏事する必要はない」と請うたことに激怒し、趙綰・王臧を罷免のうえ自殺に追い込み、竇嬰・田蚡も丞相・太尉を免ぜられた。柏至侯許昌が丞相、武彊侯莊青翟が御史大夫となった。

丞相就任と驕慢

  • 六年、竇太后が崩御。喪事の不手際で許昌・莊青翟は免ぜられ、田蚡が丞相、大司農韓安国が御史大夫となった。天下の士や郡・諸侯はますます田蚡に帰した。田蚡は容貌は貧弱ながら自らを貴んで示し、諸侯王が長老であることを憚らず、武帝がまだ若年であることをよいことに専権をふるった。丞相として奏事すれば一日中続き、進言はことごとく聴かれ、推挙する人物は家居の身から二千石にまで至った。武帝が「君の除吏はもう終わったか、私も除吏したいのだが」と皮肉ったこともある。かつて考工の地を求めて宅地を広げようとし、武帝に「いっそ武庫も取ってしまえ」と怒られてからは控えるようになった。客を招いた酒宴では兄の蓋侯にすら上席を譲らせ、「漢の丞相の尊きをもって兄のために私情で節を曲げられようか」と嘯いた。邸宅は諸邸の中で最も豪奢に整え、田園は膏腴の地を占め、市中の器物を買い集めて道に絶えず運ばせ、前堂に鐘鼓を並べ天子に准ずる曲旃を立てた。後房の婦女は百人を数え、諸方から献じられる珍物・狗馬の類も数え切れなかった。竇嬰は竇太后の死後、勢いを失って疎んじられ、公卿たちも次第に離れていったが、灌夫だけは竇嬰に厚く仕え続けた。