漢書卷五十一 賈鄒枚路傳第二十一 路温舒

尚徳緩刑の上疏

  • 路温舒、字は長君。鉅鹿東里の人。門番の子として羊飼いをしながら、沢の蒲を編んで簡(書写用の札)を作り学問した。獄吏として頭角を現し、法律・『春秋』を学び孝廉に挙げられ官吏を歴任した。
  • 昭帝崩後、昌邑王賀の廃位を経て宣帝が即位した際、「尚徳緩刑」を説く上書を行った。斉の無知の禍、晋の驪姫の乱、漢の呂氏の乱がそれぞれ桓公・文公・文帝の興隆を導いた故事を引き、変事の後にこそ新たな恩沢が必要だと説いた。
  • 秦の失政の一つとして「治獄の吏を重んじたこと」を挙げ、正論を「誹謗」、諫言を「妖言」として弾圧した結果、忠言が塞がれ虚偽の美辞が横行したことが秦滅亡の原因だと論じた。
  • 現在の獄吏も「刻薄をもって明とする」風潮があり、冤罪を恐れず被告を死に至らしめる傾向を批判。「殺すべきでない者を殺すよりは、罪を見逃す方がまし」という『書』の言葉を引き、拷問による自白強要の弊害を指摘した。
  • 「地に画いて獄と為せば入るを議せず、木を刻んで吏と為せば対うるを期せず」という俗語を引き、獄吏への不信の深さを表現し、誹謗の罪を廃して直言の道を開くことを求めた。宣帝はこの言を善しとし、路温舒を昇進させた。
  • 後に匈奴への使者を志願する上書を行ったが用いられず、臨淮太守として異例の治績を挙げて官職のまま没した。子孫は代々郡守などの高官に至った。

史論

  • 賛にいう。『春秋』で魯の臧孫達が礼をもって君を諫めたことを君子は「子孫に恵まれる行い」と評した。賈山は下より上を諫め、鄒陽・枚乗は危うい国に遊びながらも刑戮を免れたのはその言葉が正しかったからである。路温舒の言葉は順であり意は篤く、その子孫が代々栄えたのも当然であろう。