漢書卷五十一 賈鄒枚路傳第二十一 鄒陽

呉王への諫言と獄中の弁明

  • 鄒陽は斉の人。呉王濞に招かれ厳忌・枚乗らと共に仕え文辯で名を上げた。呉王が太子事件を恨み謀反の意を隠し持っていることを知り、秦の滅亡を例に諫める上書を行った。
  • 秦が函谷関に拠り天下を治めたが、陳勝・張耳らの挙兵で瓦解した経緯を述べ、現在の趙・斉・淮南各国がそれぞれ内に恨みを抱いていることを指摘し、「大王が憂えなければ、諸国の救援は一致団結しないだろう」と警告した。呉王はこの諫言を容れなかった。
  • 梁孝王に仕えた際、羊勝・公孫詭に讒言され投獄された。獄中から上書し、忠臣の信が疑われる悲劇(荊軻と燕丹、衛先生と秦昭王)や、玉人の献宝が誅を受けた卞和の故事、李斯・比干の悲劇を引いて自らの潔白を訴えた。
  • 「白頭になるまで交わっても新参のようで、傘を傾けて話しただけでも旧知のようになる」という格言を引き、真の信頼は時間の長さでなく心の一致によることを説き、樊於期・王奢・蘇秦・白圭らの故事を列挙して自らの忠誠を弁じた。
  • 上書は孝王に届き、鄒陽は釈放され上客として遇された。梁孝王が帝位継承や甬道建設を巡って朝廷と対立し爰盎暗殺の嫌疑をかけられた際には、鄒陽は当初反対していたことから難を逃れたが、羊勝・公孫詭は誅され、孝王は責任を問われた。
  • 孝王のために斉人王先生に助言を求め、王先生の紹介で王長君(王美人の兄)に取り入り、太后の心情に訴える形で梁王への追及を和らげることに成功した。

済北王を救った公孫玃の弁舌(付伝)

  • 呉楚七国の乱の際、済北王も加担を強いられたが、斉人公孫玃が梁王を説得し、済北王が実際には節を守り呉軍に加わらなかったことを弁護した。これにより済北王は罪を免れ、淄川に移封されるにとどまった。