秦を鑑とした諫言
- 賈山は潁川の人。祖父袪はかつて魏王の博士弟子であった。賈山はその学を継ぎ、多方面に通じたが純粋な儒者ではなかった。潁陰侯の騎士として仕えた経歴を持つ。
- 孝文帝の時、秦を例に治乱の道を論じた「至言」を著した。秦は天子として富貴を極めながら重税で民を疲弊させ、赭衣の罪人が道に溢れ盗賊が山に満ち、陳勝の一呼で天下が呼応した経緯を述べた。
- 咸陽から雍まで三百の離宮、阿房宮(東西五里、南北千歩)、天下に広がる馳道(幅五十歩、三丈ごとに樹木、金属で固めた壁)、驪山陵(数十万人が十年をかけ、三重の泉に達する深さ、水銀の川と天文を模した装飾)など、秦の奢侈を詳細に描写し、これらの浪費が天罰を招いたと論じた。
- 忠臣の諫言の重要性を説き、「地の痩せた所には良い種も育たないが、豊かな土地には悪い種でも大きく育つ」の喩えで、暴君の下では夏の関龍逄・殷の比干のような賢者も殺されるが、文王の下では豪傑も樵夫もその力を尽くせたと対比した。
- 古の聖王が史官・工師・公卿・士・庶人それぞれに諫言の機会を与えた制度(比諫・伝言諫・謗於道・議於市)を述べ、三老を尊んで孝を示し輔弼の臣を置き直諫の士を用いたことを称えた。
- 秦の始皇帝が会稽・琅邪で自らの功徳を石に刻み、「一世、二世……万世」に至る継承を誇ったが、わずか数か月で天下が四方から蜂起し宗廟が絶えたことを述べ、これは養老の義・輔弼の臣・進諫の士がなかったためだと結論した。
- 文帝の徳政(賢良方正の登用、恵沢を民に施したこと)を称えつつも、狩猟に興じすぎることを諫め、明堂を建て太学を興し先王の道を修めることを勧めた。
- 後に文帝が鋳銭令を除いた際にも重ねて諫言し、淮南王の赦免や柴奇の乱の教訓を説いた。文帝は罰しなかったが、その後鋳銭は再び禁じられたと伝わる。