客を大切にした長者
- 鄭当時、字は荘。陳の人。父は項籍に仕えたが、高祖が旧項籍臣に改名を命じた際に唯一従わなかった硬骨漢。孝文帝の時、任侠を好み梁孝王の将張羽を危難から救い名声を得た。
- 太子舎人の頃から賓客を厚遇し、五日ごとの休暇には駅馬を用意して郊外に賓客を招き、夜を徹してもてなした。黄老の学を好み、長者との交際を大切にし、自らを謙って年少と称した。
- 武帝の代に魯中尉・済南太守・江都相を経て九卿の右内史となったが、田蚡・竇嬰事件の議論により詹事に降格、後に大司農となった。門下の客には身分に関わらず賓主の礼を尽くし、廉潔で蓄財せず、俸禄はすべて公のために使った。
- 賢者の推挙を惜しまず、丞史の言も謙虚に聞き、山東の士人から「鄭荘」の名で慕われた。しかし黄河決壊の視察で「千里を行くのに食糧を持たない」と評される軽装備の失敗もあった。
- 匈奴征伐で財政が逼迫する中、大司農として賓客に運送業務を任せたところ多額の未納が生じ、これに連座して罪を得て庶人に落とされたが、後に汝南太守として復帰し官途で没した。一族から六、七人が二千石に至った。
- 晩年、賓客は次第に減り、死後に残った財産はなかった。かつて廷尉であった翟公の逸話(賓客が満ちていたが免官後は門前雀羅を張るほど寂れ、復職後また賓客が戻った)を引き、「一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る」という世の習いが結びとして語られる。
史論
- 賛にいう。張釈之の法を守る姿勢、馮唐の将軍論、汲黯の正直さ、鄭当時の人材推挙、これらがなければ名を成すことはできなかったであろう。揚雄は「孝文帝は自ら帝の尊厳を屈して周亜夫の軍紀に従ったのに、なぜ廉頗・李牧のような将を用いなかったのか」と述べたが、それは馮唐が魏尚のために文帝を激発させる意図があったからであろう。