漢書卷五十 張馮汲鄭傳第二十 汲黯

剛直な社稷の臣

  • 汲黯、字は長孺。濮陽の人。先祖は衛君に仕え、汲黯は十代目にあたる。景帝の代に太子洗馬、武帝即位後は謁者となった。
  • 東越の内紛視察を命じられた際「これは彼らの習俗で天子の使者を煩わすまでもない」と報告し、河内の火災視察でも「延焼は大したことはないが、河内の窮民一万余家が水旱で困窮している、独断で倉粟を放出し賑恤した」と報告し矯制の罪を認めたが、武帝はこれを賢しとして許した。
  • 滎陽県令を恥じて辞し、中大夫、東海太守を歴任。黄老の学を奉じ、無為の治を重んじ丞史に実務を委ね、大綱のみを問うた。病気がちで一年余り任地に伏せっていたが東海は大いに治まった。
  • 主爵都尉として九卿に列し、剛直な性格で人を容れず、丞相田蚡にすら拝礼しなかった。武帝が「唐虞の治を目指す」と言った際、「陛下は内心欲が多いのに外面だけ仁義を装おうとしている、どうして唐虞の治を真似られようか」と直言し武帝を激怒させたが、武帝は退朝後「甚だしいまでに汲黯は愚直だ」と嘆息した。
  • 病で三か月休暇が続いても治らなかった際、厳助の取り成しで「汲黯は職務の能力では人に勝らないが、幼主を輔弼し国を守る節義においては孟賁・夏育も奪えない」と評され、武帝は「社稷の臣とはまさに汲黯のことだ」と称えた。
  • 大将軍衛青にも拝礼せず対等に接し、これがかえって衛青から賢者と評価された。淮南王の謀反計画でも「汲黯は直諫を守り節義に死ぬ人物、公孫弘らを説くのは朦を啓くようなものだ」と恐れられた。
  • 張湯(法の厳格な運用で知られる廷尉)との対立では、「刀筆の吏は公卿に値しない、天下はこう言うだろう、まさにお前がその典型だと。天下の民は畏れて足を重ね目を側めて生きることになろう」と面罵した。
  • 公孫弘の進言により右内史に左遷されたが職務を全うした。武帝からの信任は厚く、皇帝が武帳で正装せずとも汲黯には威儀を正して対応した逸話が伝わる。
  • 匈奴の渾邪王投降の際、馬の徴発をめぐる混乱や、投降者との商取引で処刑された民衆五百余人への処置について「胡人のために罪なき民を処罰するのは天下への裏切りだ」と諫めたが用いられなかった。
  • 小過により免官され田園に隠棲したが、五銖銭の私鋳が横行した淮陽で盗鋳が多かったため淮陽太守に任じられ、辞退の末に「中郎として過ちを補いたい」と願うも「淮陽をあなどるのか、いずれまた召す」と説得され赴任、十年で没した。
  • 汲黯の弟仁は九卿、子偃は諸侯相に至った。甥の司馬安も巧みな仕官で四度九卿となり、汲黯の親族から同時に十人が二千石に至った。