削藩策と非業の死
- 鼂錯は潁川の人。軹の張恢に申不害・商鞅の刑名の学を学び、文学により太常掌故となった。性格は峭直刻深(厳格で妥協がない)であった。
- 文帝の時、『尚書』を伝える者は済南の伏生(旧秦博士、九十余歳)のみであったため、鼂錯が派遣されて学び、上書してその義を説いたことで太子舎人・門大夫を経て博士に昇進した。
- 皇太子(後の景帝)に「術数(統治の要諦)を知ることの重要性」を説く上書を行い、太子家令に任じられ、弁舌により「智嚢」と称された。
- 匈奴対策として、兵事三章(地形の得失、兵の錬度、武器の利鈍)を論じた上書を提出。歩兵・車騎・弓弩・長戟・剣楯・矛鋋それぞれに適した地形と、匈奴・中国それぞれの長技(匈奴は山地騎射・悪天候への耐性、中国は平地戦・強弩・剣戟の連携戦術)を対比し、降伏した義渠などの蛮夷を活用する策を提言した。
- 続いて辺境守備と農業振興の二事について上書。秦の失敗(謫戍による民の離反、風土に合わない徴発)を教訓に、募民による辺境実郡策(爵位・免税による誘因、家族単位での定住、医巫の配置、五家一伍の軍事組織)を詳細に提言し、文帝はこれを採用した。
- 賢良文学の士を選ぶ策問に対して長大な対策文を提出し、五帝・三王・五伯の政治を論じ、秦の失政(治獄の吏を重んじ諫言を「誹謗」「妖言」として弾圧したこと)を批判し、文帝の徳政を称えた。この対策で鼂錯は最高評価(高第)を受け中大夫に昇進した。
- 諸侯削減や法令改定について三十篇の上書を行った。文帝はすべては用いなかったがその才を評価した。太子(後の景帝)はその策を高く評価したが、爰盎ら多くの大臣は鼂錯を好まなかった。
- 景帝即位後、内史となり頻繁に人払いで進言し重用された。丞相申屠嘉との確執(宗廟の垣を無断で開いた件)では、天子の裁定で罪を免れ、申屠嘉は憤死したと伝わる。
- 御史大夫に昇進し、諸侯の罪過を理由に領地削減を上奏。竇嬰以外の誰も異を唱えなかったが、これにより竇嬰との間に軋轢が生じた。
- 削藩策により諸侯が騒然とする中、鼂錯の父は潁川から上京し「劉氏は安泰だが鼂氏は危うい、私は禍を見たくない」と告げて服毒自殺した。十余日後、呉楚七国が「鼂錯誅殺」を名目に反乱を起こした。
- 景帝は鼂錯と出兵策を協議していたが、竇嬰の取り成しで爰盎が召され、「鼂錯を斬れば呉楚は矛を収める」との献策を受け入れた。丞相青翟・中尉嘉・廷尉張敺の連名で鼂錯の弾劾(朝廷の徳信を損ない群臣・百姓を疎んじる大逆)が奏上され、鼂錯は事情を知らぬまま朝服のまま東市で腰斬に処された。
- しかし鄧公(謁者僕射、後に校尉として呉楚討伐に従軍)は帰還後、景帝に「呉は数十年来反意を抱いており、鼂錯誅殺を口実にしたに過ぎない、忠臣の口を塞ぎ諸侯に讐を報いただけだ」と諫言。景帝は嘆息して悔いを認め、鄧公を城陽中尉に任じた。
史論
- 賛にいう。爰盎は学問を好まなかったが人情の機微に通じ、義を重んじ慷慨の気概を持っていた。文帝の初立という好機に恵まれたが、時勢が変わった景帝の代に呉との一件で弁舌を用いた果てに自身も禍を免れなかった。
- 鼂錯は国のため深く思慮を巡らせたが我が身の危険を見抜けず、その父も溝瀆で自ら命を絶ったが事態の悪化を救えなかった。趙括の母が王に念を押して一族連座を免れさせた故事には遠く及ばない。悲しむべきことである。鼂錯は天寿を全うできなかったが、その忠節を哀れみ、その施策の言葉を本伝に記す。