漢書卷四十七 文三王傳第十七 梁懐王揖

梁懐王揖

  • 梁懐王揖は文帝の末子で詩書を好み、文帝に愛された。五年に一度の入朝を果たしたが、落馬事故で死去し、子がなく国は除かれた。翌年、梁孝王武が梁に転封された。

梁孝王の子孫――衰退と滅亡

  • 梁孝王には五人の子があり、太子買が梁共王、明が済川王、彭離が済東王、定が山陽王、不識が済陰王となった。
  • 共王買は十年で薨じ、子の平王襄が継いだ。済川王明は射殺事件により庶人となり房陵に流され国除。済東王彭離は驕悍で、夜な夜な奴僕と共に強盗殺人を働き、百余人を殺害したことが発覚して庶人に落とされ上庸に流され、国は済東から大河郡に改められた。山陽哀王定は九年で子なく薨じ国除。済陰哀王不識も一年で子なく薨じ国除。
  • 平王襄の代、王后任后と祖母李太后との確執(宝物の相続争い)が生じ、李太后は虐待され憂死した。後に雎陽の犴反による内紛の密告から、梁王が祖母と尊卑を争った事件が発覚し、天子は首悪を任后と断じてその首を市に晒し、王の側近も誅殺、王太后の食邑を奪い王の領地五県を削った。
  • 襄は四十年で薨じ、子の頃王無傷が継ぎ十一年、子の敬王定国が継ぎ四十年、子の夷王遂が継ぎ六年、子の荒王嘉が継ぎ十五年、子の立が継いだ。
  • 立の代、素行不良(郎吏への暴行、深夜の宮外への私的な外出など)により太傅の上奏で厳しく制約されたが改まらず、后の伯母との密通、相の掾や雎陽丞を殺害するなど罪を重ねた。谷永は「梁王は若く狂病の気があり、閨門の私事を暴くのは公族への配慮を欠く」として穏便な処置を上疏し、武帝はこれにより一時不問に付した。
  • しかし立はその後も殺人を繰り返し、哀帝建平中には廷尉らが派遣され取り調べを受けた。詔書には周書の「再三教えても改めなければ天罰が下る」という言葉が引かれ、傅相の監督責任も問われた。立は「幼くして父母を失い深宮に育ち、質性愚劣で改まらない」と弁明し、冬の間の処罰は保留されたが、翌年の大赦で不問となった。
  • 元始中、立は平帝の外戚中山衛氏と交通した罪により王莽の奏上で庶人に落とされ漢中に流され、自殺した。国は除かれて二十七年後、王莽が孝王の玄孫の曾孫を梁王として後を継がせたが、王莽の簒位により国は絶えた。

史論

  • 賛にいう。梁孝王は帝の愛する弟として膏腴の地の王となったが、漢室の隆盛にも助けられその財貨・宮室・車服を極めて僭上に及んだ。親の寵愛に頼り際限を知らず、牛の禍(凶兆)が告げる罰を受け、ついに憂いのうちに死んだのは悲しむべきことである。