漢書卷四十四 淮南衡山濟北王傳第十四 淮南王安

謀反の経緯と最期

  • 淮南王劉安は読書と鼓琴を好み、狩猟を嫌った。陰徳を施し百姓を慰撫し、賓客・方術の士数千人を集め、『内書』二十一篇、『外書』、神仙黄白の術を説く『中篇』八巻など二十余万言を著した。武帝は文才を重んじ厚遇し、『離騒伝』の作成を命じるなどした。
  • 劉安は太尉武安侯田蚡と親しく、田蚡から「上に太子なく、王は最も皇統に近い」とそそのかされ、皇位への野心を抱いた。彗星の出現を機に、諸侯乱立を予期して武備を整え、賂遺により人心を集めた。
  • 娘の陵は弁が立ち、長安で間諜(詗)として活動した。皇太后の外孫を娶らせるなど朝廷との結びつきを画策した。
  • 太子劉遷は郎中雷被との剣術の争いで恨みを買い、雷被が長安に逃れて上書したことから事件が発覚。淮南相・中尉らとの対立を経て事は廷尉に下り、河南で審理された。
  • 王の孫建(庶子劉不害の子)が、父が不遇な扱いを受けていることを恨み、太子の陰謀を密告。これにより淮南の内情が露見し、辟陽侯の孫審卿が丞相公孫弘を動かして深く追及させた。
  • 太子は伍被に反乱の相談を持ちかけたが、伍被は呉楚の乱の失敗を例に反対した。それでも王は決行を迫り、伍被に具体策(皇帝璽・将軍印の偽造、火事に乗じた要人殺害、南越侵入を装う偽計など)を練らせた。
  • 事態が緊迫する中、太子は自刃するも死にきれず、伍被が自首して事の全貌が明らかになった。淮南王は自殺し、王后・太子ら関係者は誅殺され、国は除かれて九江郡となった。
  • 議論の場で膠西王端は「淮南王安は法を廃し邪説を弄び宗廟に背いた、罪は謀反より重い」として厳罰を主張し、丞相公孫弘・廷尉張湯らの上奏を経て処分が確定した。