漢書卷四十四 淮南衡山濟北王傳第十四 淮南厲王長
淮南厲王劉長、高帝の末子。母は貫高の謀反事件に連座して投獄され出産後自殺、呂后のもとで育てられ驕慢となった。文帝の代、母の仇である辟陽侯を撲殺するなど専横を重ね、謀反が発覚して王位を廃され、流刑の途上で絶食して死んだ。死後、その子らが淮南・衡山・廬江の王に分封された。
出自と横暴
- 淮南厲王劉長は高帝の末子。母は趙王張敖の美人で、貫高らの謀反事件に連座して投獄された際に高帝の子を身ごもっていたことを訴えたが、呂后の嫉妬もあり取り成しがなされず、母は出産後自殺した。高帝はこれを悔い、呂后に育てさせた。
- 厲王は幼くして母を失い呂后の下で育ったため咎めを受けず、孝文帝の即位後は「最も近い親族」として驕り高ぶり、法を守らなかった。文帝は寛大に扱った。
- 厲王は入朝の際、母を見殺しにしたことを恨んで辟陽侯(審食其)を金の椎で自ら撲殺し、闕下で謝罪した。文帝はその心情に免じて罪を問わなかったが、これ以後厲王はますます勝手な振る舞いをするようになった。
- 文帝は帝舅薄昭に書を持たせ厲王を諫めさせた。書では、文帝が厲王の要求を数々認めてきたこと(県邑の交換、二千石の任免を許すなど)を列挙し、それにもかかわらず厲王が法度を軽んじていることを厳しく指摘し、周公の管叔・蔡叔誅罰、斉桓公の兄弟誅殺、秦始皇の弟誅殺の故事を引いて自省を促した。
- しかし厲王は聞かず、六年、男子但ら七十人・棘蒲侯柴武の太子奇と共謀し、閩越・匈奴と結んで反乱を企てたことが発覚。丞相張蒼らが法により裁くよう奏上し、文帝は死罪を赦して王位を廃した。
- 廃位後、蜀の厳道邛郵へ流される途中、袁盎の諫言(「厳しく折檻すれば路上で病死し、陛下は弟殺しの汚名を受ける」)にもかかわらず、厲王は檻車の中で「誰が私を勇者と言ったのか、驕りゆえに過ちを聞かずこうなった」と嘆き、絶食して死んだ。
- 文帝は自らの判断を悔い、丞相・御史を斬って天下に謝罪した。厲王は列侯の礼で雍に葬られた。
- 文帝八年、厲王の遺児四人を侯に封じ、十二年には民間で厲王を悼む歌が流行った(「一尺の布も縫うことができ、一斗の粟も舂くことができる。兄弟二人で相容れないとは」)。文帝はこれを聞き堯舜・周公の故事を引いて弁明しつつ、厲王を追諡し、十六年には厲王の三子を淮南・衡山・廬江の王に分封した。
- 呉楚七国の乱の際、淮南王安(三子の一人)は反乱に応じようとしたが相の機転で漢についた。廬江王も日和見に終わり、衡山王だけが堅く忠節を守り、乱後に貞信を賞されて済北に移された。