漢書卷四十三 酈陸朱劉叔孫傳第十三 叔孫通
叔孫通、薛の人。秦の博士から機転で難を逃れ、漢に仕えて秦の礼を簡略化した新しい朝儀を制定し、高帝に「皇帝の貴さを知った」と言わしめた。太子廃立の企てを命がけで諫めて翻意させ、孝恵帝の代も宗廟儀法を整えた。
朝儀の制定
- 叔孫通は薛の人。秦の博士待詔として仕えたが、陳勝の乱が起きた際、他の博士が「反逆」と正直に述べ二世皇帝の怒りを買う中、叔孫通は「単なる盗賊であり憂うるに足らない」と迎合して答え、罪を免れ博士に取り立てられた。後に「諛った」と非難されると「虎口を脱するためだ」と述べ、薛に逃れた。
- 薛が楚に降ると項梁に、続いて懐王(義帝)に、漢二年には劉邦に従った。儒服を嫌う漢王のために服装を変え、また功のある壮士を推挙して信頼を得た。
- 漢が天下を統一すると、群臣が酒に酔って乱れる様を見た高帝の憂いを察し、秦の礼を簡略化し儒者による朝儀制定を進言。魯の諸生を徴したが、二人の儒者は「百年の徳教の蓄積なくして礼楽は興せない」と拒否し従わなかった。
- 徴した者たちと共に野外で儀礼を習練し、漢七年、長楽宮が完成した際に新しい朝儀を初めて実施。群臣は威儀正しく振る舞い、高帝は「今日初めて皇帝の貴さを知った」と述べ、叔孫通を奉常に任じ黄金五百斤を賜った。叔孫通はこれを弟子らに分配し、皆から聖人と称えられた。
- 高帝十二年、高帝が趙王如意を太子に代えようとした際、叔孫通は晋の献公・秦の始皇帝の廃立の故事を引いて強く諫め、自らの首を差し出す覚悟で反対し、高帝を翻意させた。
- 高帝崩後、孝恵帝の下でも奉常として宗廟儀法の制定にあたった。恵帝が復道を築こうとした際には、高廟へ参る道と交差することを指摘して諫め、代わりに原廟の建立を提案し受け入れられた。また四季の初物を宗廟に供える習慣も叔孫通の進言に始まる。
史論
- 賛にいう。高祖は征伐によって天下を定めたが、縉紳の徒(儒者)もその知恵と弁舌で大業に貢献した。「廊廟の材は一本の木の枝ではなく、帝王の功は一人の士の智略ではない」という言葉どおりである。婁敬は輓輅を脱ぎ捨てて金城の安を建言し、叔孫通は戦陣の道具を捨てて一王の礼儀を立てた。時に恵まれたというべきである。
- 酈食其は門番に身をひそめて主君を待ち、ついに鼎鑊の禍を免れなかった。朱建は当初廉直で知られたが辟陽侯との関わりで節を全うできず身を滅ぼした。陸賈は大夫の位にとどまり、呂氏に仕えて憂いを受けず、陳平・周勃の間を取り持って社稷を強めた。その身も名も栄えたことは最も優れたものであろう。