漢書卷三十二 張耳陳餘傳第二 張敖

張敖、張耳の子。父の死後趙王を嗣ぎ、高祖の長女魯元公主を妃とした。高祖の無礼な扱いに憤った趙の相貫高が独断で暗殺を謀ったが発覚し、張敖も連座して逮捕された。貫高が拷問に屈せず王の無実を証言したことで赦免され、以後は宣平侯として遇された。

年表(3件)
  • 七年高祖の無礼な扱いに家臣貫高が憤り暗殺を進言するが、張敖はこれを拒む
  • 九年貫高の暗殺計画が密告され、張敖も逮捕される
  • 九年貫高が拷問に屈せず無実を証言し、張敖は赦免されて宣平侯に封じられる

張敖と貫高の変

  • 張耳の子敖が趙王を嗣ぎ、高祖の長女魯元公主を妃とした。七年、高祖が平城から趙を通った際、張敖は子婿の礼を尽くして仕えたが、高祖は箕踞して罵るなど無礼な扱いをした。趙の相貫高・趙午(ともに耳の旧臣、六十余歳)はこれを怒り、王に高祖暗殺を進言したが、張敖は自らの指を噛み血を流して「先王は皇帝のおかげで国を復した、恩を忘れて謀反するな」と拒んだ。貫高らは「わが君は忠厚な方、王に累が及ばぬよう我らだけで事を成す」と決意した。
  • 八年、高祖が東垣から趙を通った際、貫高らは柏人に刺客を伏せたが、高祖は不吉な予感から柏人に宿泊せず難を逃れた。九年、貫高の怨恨を持つ者が計画を密告し、高祖は趙王とその周辺を逮捕した。趙午ら十余人は自ら首を刎ねたが、貫高だけは怒って「王は本当に無関係だ、我らだけの仕業だ」と主張し、拷問で全身を刺され焼かれても口を割らなかった。
  • 呂后がしばしば魯元公主のために張敖の助命を訴えたが高祖は「張敖に天下を取らせても娘一人くらいのものか」と怒った。廷尉の報告を受け、高祖は貫高の人柄に興味を持ち、泄公を遣わして真相を尋ねさせると、貫高は「誰しも親族を愛さぬ者はない、三族が死罪となるのに王を守っているのは真実王が無関係だからだ」と述べた。これにより趙王張敖は赦免された。貫高は「私が死ななかったのは王の無実を証すためだった、目的を果たした今、簒弑の名を負った臣が再び主君に仕える顔はない」と自ら首の血脈を断って死んだ。
  • 張敖は釈放後も魯元公主との婚姻を保ち宣平侯に封じられた。以後、張敖・魯元系の子孫は代々二千石の官を得た。魯元公主は孝恵帝の時、斉悼恵王の献上により斉太后として尊ばれ、高后元年に薨じた。子の張偃は魯王となり、高后崩御後の呂氏誅滅で王位を廃されたが、文帝の代に南宮侯として復封され、以後子孫は継承と失国を繰り返し、平帝元始二年に張敖の玄孫慶忌が宣平侯として絶えた家を継いだ。

史論

  • 賛にいう。張耳・陳余は世に賢者と称され、その賓客・従者もみな出仕すれば卿相の地位を得るほどであった。しかし二人が貧賎で互いに信を尽くした頃、生死を共にすることを厭わなかったのに、国を得て権を争うに至っては互いに滅ぼし合うこととなった。かつて慕い用いた誠意が、後には背き合う戻りとなったのは、勢利による交わりを古人が恥じたことそのものである。

(以上、巻末の「前漢書卷三十二考證」は四庫館臣による校勘記のため訳出対象外とする。)