漢書卷三十二 張耳陳餘傳第二 陳餘

陳勝挙兵と趙の独立

  • 陳勝が蘄で挙兵し陳に至ると、張耳・陳余は面会を求めた。陳勝は二人の名声を知って喜び、豪傑たちの勧めで王位に即こうとしたが、張耳・陳余は「まず六国の後裔を立てて味方を増やし、咸陽を制してから帝業を成すべき。今すぐ王を称すれば天下の心が離れる」と諫めたが聞き入れられず、陳勝は張楚王を称した。
  • 二人は改めて「奇兵を借りて趙地を略したい」と願い出て、陳勝配下の武臣を将軍、自分たちを校尉として卒三千とともに趙を平定させた。武臣は各地を説いて三十余城を降し邯鄲に至った。張耳・陳余は、讒言により陳勝配下の諸将が誅殺されている噂を聞き、武臣に趙王を称するよう勧め、武臣は趙王となり、陳余は大将軍、張耳は丞相となった。
  • 陳勝は激怒し武臣らの一族を誅殺しようとしたが、丞相房君の諫めで思いとどまり、逆に趙を祝賀して西進を促した。張耳・陳余は武臣に「楚が秦を滅ぼせば必ず趙に兵を向ける、西進せず燕・代・河内を取って趙を強くすべき」と勧め、武臣はこれに従い、韓広に燕を、李良に常山を、張黶に上党を略させた。

趙の内紛と鉅鹿の危機

  • 韓広は燕人に推されて自立し燕王となった。趙王武臣が燕地に出た際に燕軍に捕らえられ、燕は趙の地の割譲を要求、使者は次々殺されたが、趙の厮養卒(雑用の兵卒)が単身乗り込んで説得し、燕将に「張耳・陳余ほどの賢者もいずれ王となる器であり、二人がその意を得れば燕を滅ぼすのは容易い」と説き、燕は武臣を釈放した。
  • 李良は常山平定後、秦将の偽の二世皇帝書状に心動かされたところを、趙王の姉の一行と誤解して斬り、勢いで邯鄲を襲い武臣を殺した。張耳・陳余は間者の助けで脱出し数万の兵を集め、趙の後裔趙歇を探し出して趙王に立て信都に拠った。李良は陳余に敗れ章邯のもとに走った。
  • 章邯は邯鄲を落として民を河内に移し城郭を平らげた。張耳と趙王歇は鉅鹿城に籠城し、秦将王離がこれを包囲、章邯は甬道を築いて王離軍に糧を送った。陳余は鉅鹿の北で数万の兵を擁しながら秦軍を恐れて動けず、張耳が何度も催促しても応じなかった。張耳は激怒し使者張黶・陳釈を送って責めたが、陳余は「共に死んでも益はない」として五千の兵だけを先に秦軍にぶつけ、全滅させた。

鉅鹿解囲とその後の不和

  • 燕・斉・楚の援軍が続々と鉅鹿へ集まる中、項羽が全軍で渡河し章邯軍を撃破、諸侯軍もこれに応じて秦軍を大破、王離を虜とした。趙王歇・張耳は鉅鹿を出て陳余と対面し、張黶・陳釈の行方を問い詰めた。陳余は「二人が死を強いたので五千人に先鋒を命じ全滅した」と釈明したが張耳は信じず、陳余を怨んだ。陳余は怒って印綬を解いて張耳に渡したが張耳は受け取らず、陳余が厠に立った隙に客の勧めで張耳がその印綬を佩び軍を接収した。以後、両者は不和となり、陳余はわずかな部下と河上の沢で漁猟して過ごした。
  • 張耳は項羽の入関に従い、項羽は諸侯を封じる際に張耳を常山王として信都(襄国と改名)に治めさせた。一方、陳余は功に見合わぬ待遇として怒り、斉王田栄と結んで兵を借り、常山を襲って張耳を破った。張耳は敗走し、漢王と旧知の縁を頼って漢に降った。陳余は代から趙王歇を迎え直し、自らは代王に就いて相国夏説に代の留守を任せた。
  • 漢二年、漢が趙に共闘を求めると、陳余は「漢が張耳を殺せば従う」と条件を出し、漢は張耳に似た者の首を送って偽り、陳余は援兵を出したが、彭城の戦いで漢が敗れ張耳の生存が発覚すると陳余は漢に背いた。漢は張耳・韓信に趙を攻めさせ、井陘の戦いで陳余は斬られ、泜水のほとりで敗死し、趙王歇も襄国で誅殺された。漢四年、張耳は趙王に立てられ、五年に薨じ景王と諡された。