漢書卷二十五上 郊祀志第五上

祭祀の起源(上古の伝承)

  • 『洪範』の八政の第三は「祀」であり、祖先を敬い神に通じるための営みとされる。その考えは四夷にまで及び、下は禽獣(豺・獺が獲物を並べて祭るような様)にすら及ぶという。
  • 聖王は精爽で斉粛な者を選び、男は覡、女は巫として神事を担わせた。四時の犠牲・壇場の順序や氏姓の由来に通じた者を「宗」、山川・礼儀・明神の事に通じた者を「祝」とした。神と民の官がそれぞれ分かれていたため両者は乱れず、神は嘉生(豊作)を降し、災禍は起こらなかった。
  • 少昊の代に衰えが生じ、九黎が乱れて民神が雑擾し、家ごとに勝手に巫史を立てて濫りに祭るようになった結果、嘉生は降らず災いが続いた。顓頊は南正重に天を、火正黎に地を司らせて旧に復した。
  • 共工氏の子・句龍は治水の功により社(土地神)に、烈山氏の子・柱は五穀を殖やした功により稷(穀物神)に祀られた。これが郊祀・社稷の起源とされる。

虞舜・夏禹の郊祀

  • 『虞書』(舜典)によれば、舜は璿璣玉衡で七政を整え、上帝を類祭し、六宗を禋祭し、山川を望祭し、あまねく群神を祀った。五瑞を集めて四方の諸侯に頒ち与え、東西南北の四嶽(岱宗=泰山、衡山、華山、恒山)と中嶽(嵩高)を歳ごとに巡狩して柴望の礼を行い、時月・度量衡・五礼五楽を統一し、三帛二生一死を贄とする制を定めた。五載に一度巡狩する制がここに始まる。
  • 禹がこの制を継いだが、十三世を経た孔甲の代、淫徳を好んで神を汚したため二龍が去った。さらに十三世を経て湯は桀を伐ち、夏社を遷そうとしたが実行できず「夏社」という書を作った(その篇名は今伝わらない)。八世後、太戊の代に桑と楮の木が朝廷に一晩で一抱えほどに生長する怪異が起き、伊陟の諫めで太戊が徳を修めると木は枯れた。伊陟は成果を巫咸に語り、これが「咸乂」四篇の由来という(この篇も伝わらない)。
  • さらに十三世後、武丁(高宗)は傅説を相とし殷を復興したが、雉が鼎の耳に登って鳴く怪異が起き、祖已の諫めで徳を修め位を全うした。五世後、帝乙は神を侮って雷震で死んだ(韋嚢に血を盛り天を射たとされる)。三世後、紂の淫乱により武王がこれを伐った。班固はこの経緯を「始めは慎み敬っても後には怠り侮るようになる」の例として引く。

周の郊祀制度と衰退、秦の興起

  • 周公が成王を輔けて王道が大いに治まり、礼楽を制定した。天子の宮を明堂・辟雍、諸侯の宮を泮宮と呼んだ。郊祀では后稷を配して天を祀り、明堂では文王を配して上帝を宗祀した。四海の内は各々の職掌をもって助祭し、天子は天下の名山大川を祭り、あまねく百神を懐柔した。五嶽は三公に、四瀆は諸侯に准じる礼で祭り、諸侯はその領域内の名山大川を、大夫は門・戸・井・竈・中霤の五祀を、士庶人は祖先を祭るのみとし、各々に典礼があって淫祀は禁じられた。
  • その後十三世を経て世は次第に衰え、礼楽は廃れ、幽王は無道で犬戎に敗れた。平王は雒陽に東遷し、秦の襄公は戎を攻めて周を救った功で諸侯に列せられ、西方に拠って自ら少昊の神を祀る主となり、西畤を作って白帝を祀った(駵駒・黄牛・羝羊各一を犠牲とした)。

秦の諸畤の設立と管仲の封禅論

  • 襄公から十四年後、秦文公は汧渭の間で猟をして居を定め、黄蛇が天から地に降りる夢を見て太史敦に占わせ、鄜畤を作って白帝を郊祭した。それ以前から雍の傍には吳陽武畤・雍東の好畤があったが、いずれも廃れて祭られていなかった。
  • 鄜畤造営から九年後、文公は陳倉北阪で「陳寶」と呼ばれる神石を得て祠った。この神は歳によって来ないこともあり、来る時は夜光・流星のように東方から祠城に集まり、雄雉のような声で鳴くとされた(呂后の諱を避けて「野雞」とも呼ばれた)。
  • 陳寶祠造営から七十一年後、秦徳公が雍に居を定め、鄜畤に三百牢を用いて伏祠を作り、邑の四門に犬を磔にして蠱災を防いだ。四年後、秦宣公は渭南に密畤を作って青帝を祭った。十三年後、秦繆公は病んで五日間目覚めなかったが、目覚めて「上帝の夢で晋の乱を平定せよとの命を受けた」と語り、その言は史に記されて府に蔵され、後世は繆公を「上天」と称した。繆公は在位九年で没した。
  • 斉桓公は諸侯を葵丘に会して覇を成し、封禅を望んだ。管仲は「古の泰山封禅・梁父禅は七十二家あり、自分が知るのは十二」として、無懐氏・虙羲・神農・炎帝・黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜・禹(会稽に禅)・湯・周成王(社首に禅)を挙げ、「みな天命を受けてから封禅した」と説いた。桓公が北伐(山戎、孤竹)・西伐(卑耳山)・南伐(召陵、熊耳山で江漢を望む)の兵車三会・乗車六会・九合諸侯・一匡天下の功業を誇ると、管仲は「古の封禅には鄗上の黍・北里の禾・江淮間一茅三脊・東海の比目魚・西海の比翼鳥など十五の瑞祥が自ずと至るべきものだが、今は鳳凰麒麟も至らず嘉禾も生えず、悪草・悪鳥ばかりが茂り栄えている」と諭し、封禅は不可と説いた。桓公はこれを容れて中止した。
  • 同年、秦繆公は晋の公子夷吾を国に送り、その後三度晋の君主を立ててその乱を平定した。五十年後の周霊王の時、諸侯が周に朝せず、大夫萇弘は鬼神の事で射礼を用いて諸侯を招致しようとしたが従われず、周室はいよいよ衰えた。二世後の敬王の時、晋人が萇弘を殺した(劉氏・范氏の婚姻に絡む政争によるという)。この頃、魯の季氏が専権して泰山に旅祭を行い、孔子はこれを非難した。

秦の統一過程における諸畤・予兆

  • 秦宣公の密畤造営から二百五十年後、秦霊公は吳陽に上畤(黄帝を祭る)・下畤(炎帝を祭る)を作った。四十八年後、周の太史儋は秦献公に見え、「周と秦は初め合してのち別れ、別れて五百年でまた合い、合してから七十年で覇王が出る」と予言した(諸家の解釈は分かれ、師古は昭襄王五十二年に西周君が邑を献じたのが「合」に当たり、五百一十六年でその数に合致するとし、「七十」は「十七」(始皇九年の嫪毐誅殺まで)の誤りとする)。
  • 儋に見えてから七年後、櫟陽に金が降り、献公はこれを金瑞として畦畤を櫟陽に作り白帝を祀った。百二十年後、周の赧王が没して九鼎が秦に入った(一説に宋の大丘の社が亡び、鼎は泗水の彭城下に沈んだとも)。赧王没後七年、秦荘襄王が東周を滅ぼし周の祭祀は絶えた。その二十八年後、秦は天下を統一して皇帝を称した。

始皇帝の徳運と封禅の挙行

  • 始皇帝の即位に際し、黄帝の土徳(地螾の瑞)、夏の木徳(青龍)、殷の金徳(銀の湧出)、周の火徳(赤烏の符)に続き、秦は水徳(文公が黒龍を獲た瑞)に当たるとされ、河の名を「徳水」と改め、十月を歳首とし、色は黒を尚び、六を基準の数とし、音は大呂、政事は法を尊ぶこととした。
  • 即位三年、東方を巡狩して郡県の祠を巡り、騶の嶧山で功業を石に刻んだ。斉魯の儒生博士七十人を泰山下に集めて封禅の礼を議論させたが説が乖離してまとまらず、始皇は儒生を退けて自ら車道を通し、山陽から頂に登って刻石し、陰道から下って梁父に禅じた。その礼はほぼ雍の上帝祭祀の作法によったが、内容は秘され世に伝わらなかった。登山の途中、暴風雨に遭い大樹の下に避けたため、封禅に与れなかった儒生たちはこれを譏った。
  • 始皇はその後東方の海上を巡り、名山川及び八神を祭り、羨門らの仙人を求めた。八神(天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主)の祭祀は古くからのものとも太公以来のものともいい、起源は不明である。斉の威王・宣王・燕の昭王の代から騶衍らが五徳終始説を説き、秦が天下を得るとこの説を採用した。宋母忌・正伯僑・元尚・羨門高ら燕人の方士が「形解銷化」の神仙術で名を上げ、燕斉の海上の方士がその術を伝えたが、怪しく阿諛の徒が横行するようになった。
  • 蓬萊・方丈・瀛洲の三神山の伝説(渤海中にあり、禽獣は皆白く宮闕は黄金銀で作られ、近づくと風に阻まれて至れないという)が広まり、始皇も方士の言を信じて童男女を海に遣わしたが、いずれも「風に阻まれた」との口実で目的を果たせなかった。その後も琅邪・恒山・上党、碣石・上郡、湘山・会稽と度々巡遊して神仙の薬を求めたが得られず、沙丘で崩じた。二世元年には碣石から会稽まで巡り、始皇の刻石の傍にその功徳を書き加えた。その秋、諸侯が秦に叛き、三年後に二世は弑され、始皇の封禅から十二年で秦は滅んだ。諸儒はかつて「始皇が泰山で風雨に遭い封禅を全うできなかったのは、その徳なくして事を用いた報い」と説いたという。

秦の祀官制度と漢の建国

  • 三代の都はみな河洛の間にあったため嵩高を中嶽としたが、秦は咸陽に都したため五嶽四瀆はすべて東方に偏る形となった。秦が天下を併せた後、祠官が常に奉ずる天地・名山大川・鬼神の序列を定めた。崤山以東では名山五・大川二(太室=嵩高、恒山、泰山、会稽、湘山/済水、淮水)を春秋冬に応じて祭り、崤山以西では名山七・名川四(華山、薄山、嶽山、岐山、呉山、鴻冢、瀆山=蜀の岷山/河、沔、湫淵、江水)を、雍州に近いことから加えて牲・車馬なども奉じた。雍にはさらに日月・参辰・南北斗・熒惑・太白・歳星・塡星・辰星・二十八宿・風伯雨師・四海・九臣十四臣ら百余の祠があり、その他各地にも周天子祠・天神・昭明・杜主など多くの小祠があった。
  • 漢の高祖は挙兵の当初、大蛇を斬った際「白帝の子を赤帝の子が殺した」という話が広まり(高祖自身は赤帝の子とされた)、沛で挙兵した際は蚩尤を祀って鼓旗に釁った。十月に霸上に至り漢王となり、以後十月を歳首、色は赤を尚ぶこととした。
  • 二年、項籍を討って関に入った際、旧秦の上帝祠が白青黄赤の四帝しかないことを知り、「天には五帝あるのになぜ四つか」と問うたが誰も答えられず、「自分を待って五を備えるためだ」と述べて黒帝祠(北畤)を立て、秦の祀官・太祝・太宰の制度を復した。県ごとに公社を置くよう命じ、上帝以下の祭祀を各々旧例のとおり続けさせた。四年後、豊の枌榆社を修めて春に羊彘で祭り、蚩尤祠を長安に立て、女巫を各地の出身に応じて分け(梁巫は天地・天社・天水・房中・堂上の類、晋巫は五帝・東君・雲中君・巫社・族人炊の類、秦巫は杜主・巫保・族纍、荊巫は堂下巫先・司命・施糜、九天巫は九天)祀官女巫の体制を整えた。二年後には周の后稷祠に倣い天下の邑に立てさせ、天下に「血食」させた。高祖は御史に詔して天下に霊星祠を立てさせ、牛で歳ごとに祭らせた。十年、有司の請により県ごとに春二月と臘に稷を羊彘で祭る令が出された。

文帝の郊祀改革と新垣平の欺瞞

  • 文帝十三年、「秘祝の官が過ちを下に移す慣習は自分は取らない」として秘祝を廃止し、名山大川の祭祀は諸侯・天子官がそれぞれの管轄で行うこととし、斉・淮南国が廃されるとその祭祀は太祝が担った。翌年は豊作が続いたため雍五畤の路車・馬具、畦畤の寓車馬、河・湫・漢水の玉などを加増した。
  • 魯人公孫臣は「秦は水徳、漢はこれを受けたので終始伝の理により漢は土徳に当たり、黄龍の出現がその応であるから正朔・服色を改めて黄を尚ぶべき」と上書したが、丞相張蒼は水徳説を主張してこれを退けた。しかし翌年、成紀に黄龍が出現し、文帝は公孫臣を博士に召して諸生と共に土徳・改暦・服色の事を明らかにさせた。
  • その夏、文帝は「異物の神が成紀に現れたのは民に害なく豊年の兆しである、私は上帝諸神を郊祀したい」と詔し、有司は「古の天子は夏に親しく郊祀した」と答え、夏四月、文帝は初めて雍に幸して五畤を郊見し、祠の衣はみな赤とした。
  • 趙人新垣平は望気の術で「長安東北に神気があり冠冕のような五色をなす」と説き、渭陽に五帝廟(一つの屋根の下に五廟を同居させ、各帝の色に応じた門を設ける)を建てさせ、翌年文帝は覇渭の会で郊見した。平は玉杯偽造や日再中の予言などの詐術で信頼を集め、上大夫にまで昇り千金を賜ったが、後にその詐術が露見して誅殺され三族が滅ぼされた。これ以後、文帝は正朔・服色を改める事に怠りがちになり、渭陽・長門の五帝祠は祠官が奉じるのみで自ら赴くことはなくなった。

武帝初期:李少君の方術

  • 匈奴が度々辺境に侵入して兵事が続き、景帝十六年間は祠官が旧のまま祭祀を続けるのみで新たな興隆はなかった。武帝は即位して特に鬼神の祭祀を重んじ、上林苑の磃氏館に神君(長陵の女子が出産で死し、姒娣の宛若に憑いたとされる神)を祀り、後には内殿に厚く迎え祀った。
  • この頃、李少君は祠竈・穀道・却老の方術で武帝に見え、自らの年齢や出自を秘し常に「七十歳で物を却老させられる」と称して諸侯を巡り、金銭衣食に困らずとも人々は不死の術を信じて贈物を絶やさなかった。武安侯の宴席で九十余の老人に「祖父と遊猟した場所」を言い当て、また武帝の古銅器の銘を斉桓公十年の柏寝台の器と的中させたことから神秘視された。少君は「祠竈をすれば鬼物を致し、丹沙を黄金に化し、その黄金で飲食器を作れば寿を益し、寿が益せば海中の蓬萊の仙人に会え、封禅すれば不死となる、黄帝がそれである」と説き、安期生に会ったという逸話も語った。武帝は自ら竈を祠り、方士を海に遣わして蓬萊・安期生を求めさせた。少君は病死したが、武帝はこれを「化去した」のであって死ではないと考え、黄錘・史寛舒にその方術を継がせた。

泰一祠の創設と文成将軍少翁

  • 燕斉の方士がさらに神事を説くようになり、亳人謬忌は「天神の最も尊いのは泰一で、五帝はその佐である」として泰一を春秋に東南郊で祭る方を奏上し、天子は太祝に長安城東南郊にその祠を立てさせた。後に「三年に一度太牢で天一・地一・泰一の三一を祭るべき」との上書、さらに「春に黄帝・㝠羊・馬行・臯山山君・武夷君・陰陽使者らを解祠すべき」との上書が相次ぎ、いずれも祠官の管轄に加えられた。
  • その後、雍で獲た一角獣(麟かとされた)を機に五畤に牛を加えて燎祭し、諸侯に白金を賜って符応を示した。済北王は天子が封禅すると聞き泰山とその周辺の邑を献上し、常山王は罪により遷され、その弟が真定に封じられて祭祀を続け、常山は郡となり、五嶽はすべて天子の郡内に収まった。
  • 斉人少翁は方術で見え、武帝の寵妃李夫人の死後、夜にその姿と竈鬼の姿を現して見せたとして文成将軍に拝され厚遇された。少翁は「神と通じるには宮室・服飾を神の物に似せる必要がある」として雲気車や甘泉宮の台室に天地・泰一・諸鬼神を描かせ祭具を置いたが、一年余り効果がなかったため、牛の腹に帛書を仕込み奇書と称して欺こうとしたが露見し誅殺された。

汾陰の宝鼎と五利将軍欒大

  • 武帝が鼎湖で重病に倒れた際、巫医が効を奏さず、上郡の巫・游水発根が神君を推挙し、武帝は病癒えると壽宮を建てて神君(太一・太禁・司命ら)を祀った。有司は元号を建元・元光・元狩(一角獣の獲得)と改めるべきと上奏し、武帝は雍で郊祀し「上帝を親祭するのに后土の祀りがないのは対偶を欠く」として、太史令司馬談・祠官寛舒の議により汾陰の澤中の圜丘に后土祠を立てた。
  • 楽成侯登の上書により膠東の欒大(かつて少翁と同門)が召され、「黄金は成せる、河決も塞げる、不死の薬も得られる、仙人も致せる」と大言し、武帝はこれを信じて五利将軍・天士将軍・地士将軍・大通将軍の四印を与え、楽通侯に封じ、衛長公主を妻あわせ天道将軍の印まで加えた。しかし欒大は海に入って師を求めると称して逃れ、実効なく後に誅殺された。
  • その夏、汾陰の巫・錦が魏脽の后土営の傍で鼎を発見し、武帝はこれを甘泉に迎えて薦めた。斉人公孫卿は黄帝が鼎湖で竜に乗って昇天した伝説(鬼㬰区の対、迎日推策、二十歳ごとの朔旦冬至、三百八十年で昇天した話)を引いて封禅を勧め、武帝は郊雍の後、寛舒らの議により泰畤の壇(三陔、五帝壇がその下を環る、群神を腋食し北斗も祭る)を甘泉に築き、十一月甲子朔旦冬至に自ら泰一を郊拝した(朝日夕月の礼を伴う)。南越征伐に際しては泰一に告禱し、牡荊で作った旗(太一の鏠旗、霊旗)を用いた。欒大は誅され、公孫卿は緱氏で候神を続けたが効なく、郡国は道を繕い名山の祠を整えて行幸に備えた。斉の滅越後、李延年の音楽好みを機に泰一・后土の祭祀に初めて楽舞(二十五弦瑟、箜篌)が用いられるようになった。

泰山封禅の挙行

  • 武帝は「先に兵を振るい旅を釈いてから封禅すべき」として朔方を巡り十余万騎を率いて還り、黄帝冢のある橋山で釈兵の祭りを行った。封禅の礼式は久しく絶えて誰も知らず、群儒は尚書・周官・王制の望祀・射牛の記述を参考にしたが議論はまとまらず、斉人丁公(秦の始皇は徳なくして封禅できなかったと説く)の勧めで数年かけて礼を習わせた。
  • 公孫卿らの黄帝伝説(怪物や神と通じて封禅した話)に基づき武帝は黄帝に倣おうとしつつ、儒術も一部取り入れて装ったが、群儒は封禅の実際を明らかにできず、徐偃・周霸らの議論の紛糾により両者とも退けられ、以後群儒は用いられなくなった。
  • 東の緱氏で中嶽太室に登拝した際、山上で「万歳」と呼ぶ声が聞こえたとされ、太室の祠を増し山木の伐採を禁じ三百戸を崈高の奉邑とした。泰山に登る際は草木がまだ生えていなかったため人に石を運ばせて山頂に立てた。東は海上を巡って八神を祭り、数千人を船で遣わして蓬萊の神山を求めさせたが至らなかった。
  • 奉高に至り、封禅の礼を議論の末、玉牒の書を秘して泰山下で封じ(高さ九尺・広さ一丈二尺)、翌日には侍中・子侯(霍去病の子)のみを伴い自ら泰山に登ってさらに封じた。翌日は泰山下の肅然山で后土祭祀の礼にならって禅じ、すべて楽を用い、衣は黄を用いた。江淮間の一茅三脊を神の敷物とし、遠方の珍しい獣鳥・白雉なども祭りに加え、兕牛・象犀の類は用いなかった。封禅の夜には光があり昼には白雲が出たとされる。天子は禅を終えて明堂に座り、群臣が寿を上げ、元号を元封と改めた。以後、天子は五載に一度巡狩し、諸侯は泰山下に邸を治めて朝宿するよう定められた。
  • 泰山封禅の後も風雨はなかったが、方士がなお蓬萊の神を語るため天子は欣然として東海に至り望んだ。奉車子侯が急病で一日で死んだため、天子は海沿いを北上して碣石に至り、遼西から北辺・九原を経て五月に甘泉に還った(この巡行は一万八千里に及んだという)。その秋、東井に星孛が現れ、十余日後には三能にも星孛が現れた。望気の王朔が塡星の出現を候見し、有司は「陛下が漢家の封禅を建てた徳への天の報い」と奏した。
  • 翌年冬、雍で五畤を郊祀し還る際、泰一に拝祝した(「徳星昭衍、寿星・信星も現れた、皇帝敬んで泰祝の享を拝す」との賛饗辞が伝わる)。その春、公孫卿が東莱山で神人らしきものを見たと言い、天子は緱氏城に幸して卿を中大夫に拝したが、数日滞在しても何も見えなかった。方士はなお千人規模で神仙・薬を求め続けた。この年は旱魃で、天子は名を秘して万里沙に禱り、途中泰山を祠り、還って瓠子で自ら決河の塞ぎ工事に臨み、二日滞在して河に祭具を沈めてから去った。

粤の平定と候神施設の拡充

  • 両粤(南越・東越)を滅ぼした後、粤人勇之が「粤の風俗は鬼を尊び、その祭祀は霊験があった。東甌王は鬼を敬い百六十歳まで生きたが、後世が怠って衰えた」と説き、粤巫に粤祝の祠を安台に立てさせ、壇はないが天神・帝・百鬼を祀り、雞卜(鶏の骨で占う法)を用いた。天子はこれを信じ、雞卜は国家の祭祀として初めて用いられた。
  • 公孫卿は「仙人は招かれるのを待つもの、緱氏城のような館を作り脯棗を置けば来るだろう、仙人は高楼を好む」と説き、長安に飛廉観・桂観、甘泉に益寿観・延寿観を作らせ、さらに通天台を築いて祭具を置き神仙を招こうとした。甘泉宮は前殿以下諸宮室を広げ、房中に芝が生えたことを瑞祥として天下に大赦した。
  • 朝鮮征伐の年に旱魃があり、公孫卿が「黄帝の時も封禅の後は三年乾封した」と説くと、天子は「乾封の兆しか」と詔し、天下に霊星を尊祠させた。翌年は雍で五畤を郊祀し、回中道を通って独鹿・鳴沢を経て西河から河東に還り后土を祠った。翌年は南方を巡狩して江陵に至り、灊の天柱山に登礼して南嶽と号し、長江を下って樅陽に出、彭蠡を過ぎて名山川を祭り、北は琅邪に至って海沿いを進み、四月に奉高で修封を行った。

明堂の造営と泰山修封の定例化

  • 泰山東北に古の明堂址があったが険しく狭かったため、済南人公玉帯が上呈した黄帝時代の明堂図(四面壁のない一殿を茅で葺き、水を巡らせ複道と楼を設ける形式)に基づき、汶水のほとりに明堂を新造した。この年の修封では泰一・五帝を明堂の上坐に祭り、高皇帝の祠坐をこれに対して配し、后土は下房に祭った。天子は昆侖道から入って明堂を拝し、礼を終えて堂下で燎祭を行った。泰山の頂には別に秘祠があり、山下では五帝を各方角に応じて祭った。以後、還って甘泉で泰畤を郊祀し、春には汾陰で后土を祠るのを恒例とし、十一月甲子朔旦冬至に上帝を明堂で祀った後、修封を重ねた(「天は皇帝に泰元の神策を増授し、周りて復た始まる」との賛饗辞が伝わる)。
  • その後も東海への望祀を続けたが方士の求めた神仙にはついに験がなく、栢梁台が火災に遭った際は自ら高里山で禅じ后土を祠り、公孫卿は「黄帝も青霊台が完成後十二日で焼け、それを機に明庭(甘泉)を治めた」と解説した。方士の言うところにより甘泉に諸侯の邸を作って朝見させ、粤人勇之は「粤の風俗では火災の後は必ず大きく造り直して勝つ」と説き、これにより千門万戸の建章宮が造営された(鳳闕・商中の虎圏・泰液池に蓬萊方丈瀛洲を模した島・玉堂璧門・神明台・井幹楼などを備える)。

太初改暦と武帝晩年の候神

  • 夏、暦を改めて正月を歳首とし色は黄を尚び、官印の字数を五字に改めて太初元年とした。この年、大宛を西伐し蝗害が大発生し、丁夫人・雒陽の虞初らが方術で匈奴・大宛を詛った。翌年、有司が雍五畤の供物不足を報告すると、祠官に犢・牢具を進めさせ色・食を五行相勝の理に合わせ、名山川の駒による祭祀は木の寓馬で代用させた(親祭の際のみ実際の駒を用いた)。
  • 翌年、東方を巡り海上で神仙を求めたが験なく、方士は「黄帝の時は五城十二楼を築いて執期で神を候った」と言い、これに倣った施設を「迎年」(後に「明年」と改称)と名づけて祠った。公玉帯は「黄帝は泰山を封じただけでなく、風后・岐伯に東泰山を封じ凡山に禅じさせて初めて不死と合符した」と説いたが、東泰山が小さく評判に見合わなかったため封じずに礼のみ行わせた。その後は五年ごとの修封のたびに石閭山(泰山下阯南方)での禅祠を加えるようになった。
  • 泰山封禅から十三年で五嶽四瀆を一巡し、以後も五年ごとの修封を重ね、その途上で恒山を祭り、琅邪で日を、成山で日の出を、之罘で八神・延年を祭り、交門宮で神人を祭ったとされる。ある年は雍県に雷鳴のような音や虹気、隕石などの異象があり瑞祥として宗廟に薦められたが、方士の海上探索は最後まで験がなかった。それでも公孫卿は大人の足跡を口実に弁明し、天子は真の仙人に会うことを望んでなお方士をつなぎとめた。薄忌泰一・三一・㝠羊馬行・赤星・五牀寛舒の祠宮など六祠は太祝が歳時に祭りを続け、方士が個別に興した祠はその人が死ねば絶えた。

昭帝・宣帝の郊祀継承

  • 甘泉の泰一・汾陰の后土は三年に一度親祭し、泰山の修封は五年に一度とされ、武帝は生涯に五度修封した。昭帝は即位時まだ若く、自ら巡狩・親祭したことはなかった。宣帝は武帝の正統を継いだことから即位三年で孝武廟を世宗と尊び、巡狩先の郡国すべてに廟を立てさせた。世宗廟の告祠に際して白鶴が集まり、孝昭の寝廟には五色の雁が、西河の世宗廟には神光や白鶴のような鳥が現れ、広川国の世宗廟殿上では鐘が自ら鳴り門戸が開いて夜も光ったといい、天子は天下に大赦した。
  • 大将軍霍光の輔政期、天子は南面するのみで宗廟の祭祀以外には出なかったが、十二年後「上帝の祠が十余年も親祭を欠いている」として自ら郊祀に赴く詔を出した。翌年正月、甘泉で泰畤を郊見し瑞祥が続き、武帝の故事に倣って盛んに礼を行った。三月には河東で后土を祠って神爵が現れ、元号を神爵と改めた。太常への詔により江海・雒水も四時に祈年の祭祀対象とされ、以後五嶽四瀆すべてに常礼が定められた(東嶽泰山は博、中嶽泰室は嵩高、南嶽灊山は灊、西嶽華山は華陰、北嶽常山は上曲陽、河は臨晋、江は江都、淮は平氏、済は臨邑にて使者が持節して侍祠し、泰山と河は歳五祠、他の四瀆は一禱三祠とされた)。
  • 南郡が白虎を獲てその皮牙爪を献じたため祠を立て、方士の言により随侯珠・斬蛇剣・宝璧・周の康王の宝鼎の四祠を未央宮中に立てた。また即墨に太室山、下密に三戸山、鴻門に天封苑火井、長安城旁に歳星・辰星・太白・熒惑・南斗の祠、曲城に叄山八神、臨朐に蓬山石社石鼓、腄に之罘山、不夜に成山(日を祠る)、黄に萊山(月を祠る)、琅邪に四時、寿良に蚩尤、鄠に労谷・五牀山・日月五帝仙人玉女、雲陽に休屠王を祭る径路神祠、膚施に五龍山仙人祠・黄帝天神帝原水など多くの祠を新設した。
  • 益州の金馬碧鶏の神を醮祭すべしとの言があり、諫大夫王褒を持節で遣わした。大夫劉更生(劉向)は淮南枕中鴻宝苑秘の方を献じ尚方に鋳造させたが験なく坐罪となり、京兆尹張敞は「方士の虚言を斥け帝王の術に心を遊ばせるべき」と上疏して諫めた。その後尚方待詔は罷められた。美陽で得た鼎を献じた際、有司の多くは元鼎年間の故事に倣い宗廟に薦めるべきとしたが、古文に通じた張敞は銘を按じて周の栒邑での宝物下賜の由来と論じ、汾陰で出た鼎(形が大きく特異)と違い此の鼎は小さく銘があるため宗廟に薦めるべきでないと議し、詔もこれに従った。
  • 河東行幸の翌正月、鳳凰が祋祤に集まりその場所から玉宝を得て歩寿宮を建て、天下に大赦した。以後、間歳ごとに鳳皇・神爵・甘露が京師に現れて大赦し、鳳皇が上林に集まると鳳皇殿を作って瑞祥に応えた。改元は五鳳・甘露・黄龍と重ねられ、その都度甘泉での郊泰畤や雍五畤の祭祀、河東の后土祭祀が行われ、黄龍出現の年には新豊・建章・未央・長楽の鐘虡・銅人に毛が生える異象もあった。宣帝は黄龍と改元した年の冬に崩じ、在位中に鳳皇が下った郡国は五十余所に及んだという。

元帝の郊祀継承と宗廟整理

  • 元帝は即位して旧儀に従い、間歳ごとに正月甘泉を郊祀し、東は河東で后土を、西は雍で五畤を祭った。三年に五度は泰畤・后土の祠を奉じ、行幸の際は田租を免じ、百戸に牛酒を賜り、あるいは爵を賜い罪人を赦すなど恩沢を施した。元帝は儒を好み、貢禹・韋玄成・匡衡らが相次いで公卿となった。貢禹は「漢の宗廟祭祀は古礼に合わないものが多い」と建言し、後に韋玄成が丞相となって郡国廟や太上皇・孝恵帝以下の諸園寝廟を罷める議を進めたが、元帝が寝疾の際に神霊が廟を罷めたことを譴める夢を見たため復し、以後も廃止と復活が繰り返され哀帝・平帝の代まで定まらなかった(詳細は韋玄成伝にある)。

成帝:匡衡による南北郊への改革

  • 成帝の即位当初、丞相匡衡・御史大夫張譚は「帝王の事は天の序を承けることに勝るものはなく、その中でも郊祀が最も重い。祭天は南郊、瘞地は北郊とするのが陽陰の理にかなう。しかるに武帝以来、甘泉で天を郊祀し(本来の北の陰位から外れ)、汾陰で地を祭る(本来の東の陽位から外れる)のは古制に反し、道も険阻で民に負担をかける。甘泉泰畤・河東后土の祠を長安に徙して南北郊とすべき」と奏した。
  • 大司馬車騎将軍許嘉ら八人は「由来久しく、旧のままでよい」と主張したが、右将軍王商・博士師丹・議郎翟方進ら五十人は『礼記』の燔柴・瘞薶・兆於南郊の記述、『尚書』洛誥の郊礼の記事などを引いて改革に賛成し、匡衡・張譚も洪範の「三人占従二人言」の理や太誓・詩経の句を引いて多数説(五十人)に従うべきと重ねて論じ、成帝はこれを容れて長安に南北郊を定めることとなった。
  • 匡衡はさらに祭儀の細部も改めた。甘泉泰畤の紫壇八觚(八方に通じる形)・五帝壇・群神の壇・玉女楽・石壇仙人祠・瘞める鸞路や騂駒・木の寓龍馬などについて、匡衡は「郊柴の礼は質素を尊ぶもので、犢の牲・藁稭の席・陶匏の器を用いる周礼の精神に反し、偽飾の女楽・鸞路・騂駒・龍馬・石壇の類はすべて廃すべき」と論じた。また雍の鄜畤・密畤・上下畤などは秦の諸侯が私意で立てたもので礼典に載らず、漢初は秦の旧祠に因って北畤を立てたに過ぎないとして、これらを廃するよう論じた。長安の厨官・県官が郡国・候神方士に給していた祠六百八十三所のうち二百八所を存続、四百七十五所を廃止し、雍の旧祠二百三所のうち十五所を存続、諸布・諸厳・諸逐の祠、杜主の五祠の一つ、高祖以来の梁晋秦荊巫九天南山萊中の祠、孝文の渭陽祠、孝武の薄忌泰一・三一・黄帝㝠羊馬行・泰一臯山山君・武夷・夏后啓母石・万里沙・八神延年、孝宣の参山・蓬山・之罘・成山・萊山・四時・蚩尤・労谷・五牀・仙人玉女・径路・黄帝天神原水などの祠をことごとく廃し、候神の方士使者・本草待詔七十余人も家に帰らせた。

天変と祭祀の復旧、王莽による礼制再編

  • 翌年、匡衡は事に坐して官爵を免ぜられた。世論には祭祀を変動させたことを不当とする声が多く、甘泉泰畤を初めて廃して南郊を作った際には大風で甘泉の竹宮が壊れ、畤中の十囲以上の樹木が百余本折れる異変があった。天子がこれを劉向に問うと、劉向は「庶人の家でさえ祖先の祠を絶やそうとはしない、まして国家の神宝の旧畤はなおさらだ。武帝・宣帝の代は三神(甘泉・汾陰・雍陳寶)への祭祀が篤く神光もしばしば著しかった。陳寶祠は秦文公以来七百余年、代々光が現れてきた。継嗣のないこの時期に軽々しく動かすべきではない」と答え、天子の心は動いた。
  • 継嗣がないことを憂いた成帝は、皇太后の詔により甘泉泰畤・汾陰后土・雍五畤・陳寶祠を旧に復し、長安・雍・郡国の著名な祠のほぼ半分を復活させた。成帝晩年は鬼神を好み、継嗣のなさから方術を説く上書が多く採用されたが、大きく貴顕した者はなかった。谷永は「天地の性に明るければ怪異に惑わされず、万物の実を知れば非類に欺かれない。仁義の正道を離れ竒怪の鬼神を尊び無益の祠に報いを求め、不死の薬や登遐・変化の術を説く者はみな姦人であり、周の萇弘・楚の懐王・秦始皇の失敗、新垣平・少翁・公孫卿・欒大らの詐術と破滅の例を鑑みるべき」と諫め、「享多儀、儀不及物惟曰不享」(洛誥)、「子不語怪神」(論語)を引いて成帝を諫止し、成帝はこれを善しとした。
  • 大司馬衛将軍となった王商を、杜鄴は易の「東鄰殺牛不如西鄰之禴祭」の句を引いて「祭祀の道は誠実さを尊ぶのであり、盛大でも徳が伴わなければ祐を得られない、甘泉・河東の郊祀は方位も陰陽の理にかない先の失敗の徴も明らかである」と諫めた。しかし数年後、成帝は皇太后の詔により再び甘泉泰畤・汾陰后土を復し、南北郊も長安に復した。哀帝は即位して寝疾のため博く方術士を徴し、京師諸県に侍祠使者を置いて前世の諸神祠官凡そ七百余所(年に三万七千の祭祀)を復活させたが、翌年には太皇太后の詔により「継嗣なき身での改作は不適当」として甘泉泰畤・汾陰后土の祠のみ旧に復し、天子自身は親祭せず有司に行わせた。三年後、哀帝は崩じた。

王莽の郊祀改革(元始五年)

  • 平帝元始五年、大司馬王莽は「王者は天に父として事えるゆえに天子と称する。孔子曰く『人の行いは孝より大なるはなく、孝は父を厳んずるより大なるはなく、父を厳んずるは天に配するより大なるはない』。周公が后稷を郊祀して天に配し、文王を明堂に宗祀して上帝に配したのはこの意による」と述べ、漢の郊祀沿革を整理して上奏した:高祖は雍四畤に因り北畤を立てたが天地の祀を共に備えず、文帝十六年に新垣平により渭陽五帝廟を初めて立てて泰一・地祗を高皇帝に配して祭ったが平の誅殺後は親祭せず、武帝は元鼎四年に汾陰后土祠、五年に甘泉泰一祠を立て三歳一郊としたが歳事とせず古制に合わなかった。成帝建始元年に南北郊へ徙したが、永始元年に皇孫のないことから甘泉・河東の祠を復し、綏和二年には効なく再び南北郊に復した。哀帝建平三年にも甘泉・汾陰の祠を復したが福を得られなかった。王莽は太師孔光・長楽少府平晏・大司農左咸・中壘校尉劉歆・大中大夫朱陽・博士薛順・議郎国由ら六十七人と議し、成帝建始年間の丞相匡衡の議に従って長安の南北郊に復すべきと結論した。

王莽の祭祀体系整備

  • 王莽は周官に依拠して祭礼を改めた。合楽(六律六鍾五声八音の六舞で天神・地祗・四望・山川・先妣先祖を合祀する)の説を引き、天地を南郊で合祀し高帝・高后を配する制(天地は南面同席、地は東で共牢、高帝・高后は壇上西面で共牢、牲は繭栗を用いる)や、籍田千畝で黍稷を供する制、冬至は円丘、夏至は方丘で楽を奏して天神・地祗を降す制、正月上辛の日に天地を南郊で合祀し高帝・高后を配す制などを定めた。三十余年の間に天地の祠は五度も遷ったという。
  • さらに「六宗」の解釈について、欧陽・大小夏侯の三家は「上は天に及ばず下は地に及ばず旁は四方に及ばぬ、陰陽変化を助ける名実の合わぬ六者」と説くが、王莽は易の八卦(乾坤の六子=震巽坎離艮兌、すなわち水火風雷山沢)に基づいて六宗を定め直すべきと論じた。周官の「五帝を四郊に兆す」制にならい、中央(黄霊后土畤・日廟・北辰北斗塡星)は長安城の未の方角に、東方(太昊青霊勾芒畤・雷公風伯廟・歳星)は東郊に、南方(炎帝赤霊祝融畤・熒惑星)は南郊に、西方(少皥白霊蓐収畤・太白星)は西郊に、北方(顓頊黒霊玄冥畤・月廟・雨師廟・辰星)は北郊にそれぞれ祠を配置した。
  • 王莽はまた「帝王が社稷を建てるのは百王変わらぬ制であり、社は土、稷は五穀の主で宗廟の粢盛を供するもの」と論じ、それまで官社はあっても官稷がなかったのを整え、夏禹を官社に、后稷を官稷に配食させた。徐州牧には歳ごとに五色の土各一斗を貢がせた。
  • 王莽が簒位した後は神仙事業を興し、方士蘇楽の言により宮中に八風台を築き(費用一万金)、その上で楽を奏し風向きに応じた「液湯」を作り、殿中に五色の禾(五梁禾)を五行の方位に応じて植え、鶴の脳や玳瑁・犀角など二十余物を煮て種を漬け、一斛の粟から一金を得られるという「黄帝穀僊の術」を行わせ、蘇楽を黄門郎としてこれを主管させた。王莽は末年になるほど鬼神への淫祀を崇め、天地六宗から諸々の小鬼神まで凡そ千七百所、三牲鳥獣三千余種を用いる祭祀を行ったが、後には備えきれず鶏を鶩・雁に、犬を麋鹿に代用するようになった。

史論

  • 賛にいう。漢の興った当初は諸事が草創期にあり、叔孫通が朝廷の儀礼を略定めたのみで、正朔・服色・郊望の制は数世を経てもなお明らかにならなかった。文帝に至って初めて夏の暦法で郊祀を行ったが、張蒼は水徳説を、公孫臣・賈誼は土徳説を唱えて対立し、ついに定まらなかった。武帝の代になって文物制度が盛んになり、太初の改暦に際して兒寛・司馬遷らはなお公孫臣・賈誼の説を継いで黄徳を採用した(五徳相勝の理により、火が金に勝つように次の徳が前の徳に取って代わるという考え方による)。秦は水徳とされていたため、漢は土をもってこれに勝つとされたのである。
  • 一方、劉向・劉歆父子は「帝は震(東方)より出づ」の易説により、庖犠氏(伏羲)が木徳より始まり、以後は母から子へ徳が伝わるように神農・黄帝から唐虞三代を経て、漢は火徳に当たると論じた。これは高祖が挙兵の際「神母が夜に泣いた」という話や赤帝の符瑞に基づく(この論は後漢の光武帝建武二年になって初めて採用され火徳・色は赤とされた)。秦が自らを水徳とし木火の間に割り込ませたことは正統な順序を欠くため長続きしなかったとされる。以上のように、祖宗の制度は自然の応と時宜に従って定まってきたものであり、方士・祠官の変遷をつぶさに見るに、谷永の諫言はまことに正しいものであった、まことに正しいものであった、と班固は結んでいる。