食(農業・土地制度)
食貨の意義と井田制の理念
- 『洪範』の八政は一に食、二に貨をいう。食とは農殖された嘉穀など食すべき物、貨とは布帛・金刀亀貝など財を分かち利を布き有無を通ずるものである。この二つは民生の本で、神農の世に木を斵って耜を、木を煣めて耒を作り耕耨の利を天下に教えて食が足り、日中を市として天下の民と貨を交易し各々その所を得て貨が通じたことに興る。黄帝以下は変に通じさせ、堯は四子(羲仲・羲叔・和仲・和叔)に敬んで民に時を授けさせ、舜は后稷に黎民の飢えを命じ、禹は洪水を平らげ九州を定め土田を制して遠近によって貢賦を課した。殷周の盛時、詩書の述べるところは安民富教にあり、『易』に「天地の大徳を生といい、聖人の大宝を位という。位を守るには仁、人を聚めるには財」とあるように、財は帝王が人を聚め位を守り群生を養い天徳に順って国を治め民を安んずる本である。『論語』に「寡きを患えず均しからざるを患う、貧しきを患えず安からざるを患う。均しければ貧なく、和すれば寡なく、安ければ傾くことなし」とあるとおりである。
- 聖王は民を域(邦)し城郭を築いてこれを居らせ、廬井を制して均しくし、市肆を開いて通じ、庠序を設けて教えた。士農工商の四民はそれぞれ業を持ち、士は学んで位に居り、農は土を闢いて穀を殖やし、工は巧を作して器を成し、商は財を通じ貨を鬻ぐ。聖王は能を量って事を授け朝に廃官なく邑に敖民なく地に曠土なし。理民の道は地著を本とし、必ず歩を建て畮を立てて経界を正す。六尺を歩、百歩を畮、百畮を夫、三夫を屋、三屋を井(一里四方)とし、九夫八家がこれを共有し、各々百畮の私田と十畮の公田を受け、残り二十畮を廬舎とし、出入相友い守望相助け疾病相救う。民田は上田夫百畮、中田夫二百畮、下田夫三百畮とし、上田は毎年、中田は隔年、下田は三年ごとに耕作地を替える(自爰其処)。士工商の家は五口で農夫一人分の田を受ける。山林藪沢原陵など不毛の地は肥磽の差で税を定め、公田什一の税と工商衡虞からの賦がある。賦は車馬甲兵士徒の役に充て府庫・賜予の用を実たし、税は郊社宗廟百神の祀・天子の奉養・百官の禄食に充てる。民は二十歳で田を受け、六十歳で田を帰す。七十以上は上(国家)が養い、十歳以下は上が育て、十一歳以上は上が彊める。田には必ず五種の穀(黍稷麻麦豆)を雑えて災害に備え、田中に樹を植えず、力耕し数々耘って寇盗の至るが如く収穫し、廬の周りには桑を植え瓜果の畦を作り鶏豚狗彘の時を失わず、女は蚕織を修めれば五十で帛を、七十で肉を食すことができる。
- 野にあるを廬、邑にあるを里という。五家で鄰、五鄰で里、四里で族、五族で党、五党で州、五州で郷(一万二千五百戸)とし、里には序、郷には庠があって教化を明らかにした。詩「四之日挙止して我が婦子と同にし彼の南畮に饁う」「十月蟋蟀我が牀下に入り、嗟我が婦子聿に歳を改めんとし此の室に入りて処る」(豳風・七月)に見えるように、陰陽に順い寇賊に備え礼文を習う暮らしがあった。春に民が出る際は里胥・鄰長が門で早晩を督し、冬に民が入ると婦人は同巷で夜績を行い一月に四十五夜分の作業ができ、費用を省き習俗を合わせた。男女の不遇な者は互いに歌詠して傷みを言い、この月には未任役の餘子も序室にあった。八歳で小学に入り六甲・五方の書計を学び、十五歳で大学に入り先聖の礼楽と朝廷君臣の礼を学ぶ。秀異な者は郷学から庠序へ、さらに国学・少学へと移り、諸侯は少学の秀異な者を天子の大学に貢し「造士」と呼ばれ、行いと能力が同等なら射で試して爵命した。孟春の月、群居する者が散る際、行人(遒人)は木鐸を振って路を巡り怨刺の詩を採り大師に献じ音律に比して天子に聞かせた。「王者は牖戸を窺わずして天下を知る」といわれる所以である。孔子の「千乗の国を道むるに事を敬んで信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす」(論語)の言葉のとおり、民は皆功を勧め業を楽しみ先公後私とし、詩「渰として淒淒たり雲を興し祁祁たり、雨我が公田に、遂に我が私に及ぶ」(小雅・大田)のように公田を先にした。民は三年耕せば一年の蓄えを余し、衣食足りて栄辱を知り廉譲が生じ争訟が息む。三年ごとに績を考え、三考で黜陟し、九年で登(豊作)・平(並作)・泰平(大豊作)の別により二十七年で九年分の蓄えを遺し、王徳が流洽して礼楽が成る。孔子の「もし王者があっても必ず世を経て後に仁ならん」との言葉はこの道による。
井田制の崩壊と戦国の変化
- 周室が衰えると暴君汚吏が経界を怠り繇役が横行し政令が信を失い上下相詐り公田が治まらなくなり、魯の宣公が初めて畮に税をかけ『春秋』はこれを譏った。上が貪り民が怨み、災害・禍乱が生じ、戦国に至って詐力を貴び仁義を賤しみ富有を先にして礼譲を後にするようになった。
- この時、李悝は魏の文侯のため尽地力の教を作った。地方百里、提封九万頃から山沢邑居を除いた六百万畮の田で、治田に勤めれば畮に三升増え怠れば三升減り、増減で地方百里で粟百八十万石の差が生じるとした。また「糴が甚だ高ければ民(士工商)を傷め、甚だ安ければ農を傷める」とし、五口の一夫が百畮を治め歳収百五十石、十一の税を除き百三十五石、食費九十石を引き四十五石が余り、銭に換算し社閭嘗新春秋の祠・衣服費等を引くと四百五十銭不足すると試算し、これが農夫の常に困窮する所以とした。そこで平糴の法を立て、豊凶に応じ大孰(大豊作)は四倍収穫のうち三を余して官が糴い、中孰は三倍のうち一を、下孰は倍のうち上糴一を、小饑・中饑・大饑にはそれぞれ蓄えを放出して糶り、糴が高くならず民が離散しない仕組みとした。魏はこれを行い富強となった。秦の孝公は商君を用いて井田を壊し仟伯を開き耕戦の賞を急ぎ、務本の実で隣国を凌ぎ諸侯に雄たったが、王制はついに滅び僭差限りなく、富者の資財は累鉅万に及ぶ一方貧者は糟糠を食むまでに至った。
- 秦始皇は天下を併せ内外に功を興し、泰半(三分の二)の賦を収め閭左の戍を発し、男は耕すも糧饟足らず女は紡ぐも衣服足らず、天下の資財を竭くしてもその欲を澹すに足らず海内は愁怨してついに潰畔した。
漢初の軽税政策と文帝・賈誼・鼂錯の重農論
- 漢が興ると秦の敝を承け諸侯が並び起こり民は生業を失い大飢饉となり、米は一石五千銭、人相食み死者は過半に及んだため、高祖は民が子を売って蜀漢に就食することを許した。天下平定後は民に蓄えなく、天下具わらぬまで醇駟すら整わず将相が牛車に乗る有様であった。上は法を約め禁を省き田租を軽くして十五に一を税し、吏禄を量って官用を度り民に賦した。山川園池市肆の租税は天子から封君湯沐邑まで各々私奉養とし国朝の経費には入れなかった。関東の粟を漕運して中都官に給するのも年に数十万石を超えなかった。孝恵・高后の間、衣食は次第に殖え、文帝は即位すると躬ら倹節を脩め百姓を安んじようとした。
- 賈誼は上疏し、「管子の『倉廩実ちて礼節を知る』というが民足らずして治まる例は古今聞いたことがない。一夫耕さざれば飢え、一女織らざれば寒う。生ずるに時あり用うるに度なければ物力は必ず尽きる」と説き、今背本趨末する者が甚だ多く天下の大残であり、淫侈の風が日に長じるのは天下の大賊であると論じた。積貯は天下の大命であり粟が多く財に余りあれば攻めて取り守って固く戦って勝ち、遠きを懐け招くことができる。今、民を駆って本に帰し末技游食の民を南畮に向かわせれば天下は富安すると説き、上は感じて藉田を開き躬耕して百姓を勧めた。
- 鼂錯もまた上疏し「聖王が上にあって民が凍餓しないのは、資財の道を開くからである。堯禹の九年の水、湯の七年の旱にも国に捐瘠なきは畜積の多さと備えの先んじあるゆえ」と説き、今海内一統し土地人民の衆さは湯禹に劣らずまた天災の数年もないのに蓄積が及ばないのは、地に遺利があり民に余力があるのに開墾・山沢の利用・游食の民の帰農が尽くされていないためだとした。民は貧すれば姦邪を生じ、貧は不足より、不足は不農より、不農は不地著より生じ、不地著の民は鳥獣の如く高城深池・厳法重刑も禁じきれない。明主は農桑に務め賦斂を薄くし畜積を広めて水旱に備える。今、農夫五口の家では役に就く者二人を除き耕せるのは百畮に過ぎず収穫百石ほどで、春耕夏耘秋穫冬蔵に加え官府の力役にも休みなく従い、私の送迎弔問養育の費えもあり、水旱の災や急な賦斂・朝令暮改にまで見舞われれば、有る物は半価で売り無い者は倍称の息(利息)を取らざるを得ず、田宅を売り子孫を鬻いで償う者まで現れる。一方、商賈は積貯して倍息を得、坐して売買し竒贏を操って都市に游び、耕耘織すら要さず衣は文采食は粱肉、農夫の苦なくして仟伯(千・百銭)の得あり、富厚により王侯と交通し力は吏勢を凌ぎ利を以て相傾け、堅車に乗り肥馬に策ち絲を履き縞を曵く。これが商人が農人を兼并し農人が流亡する所以であり、法律は商人を賤しめながら商人は既に富貴、農夫を尊びながら農夫は既に貧賤という上下相反の状態にある。今の務めは民を農に務めさせることに如くはなく、そのためには粟を貴ぶことが道であり、粟を貴ぶには粟を賞罰の手段とすべきだと説き、天下に募って粟を県官に入れれば爵を拝し罪を除く制度を提案した。これにより富人は爵を、農民は銭を得て粟が渫(流通)し、主用足り民賦少なく農功が勧められる三利がある。また車騎馬一匹を持つ者に卒三人分を復す(免除する)よう提案し、「神農の教えに石城十仞湯池百歩帯甲百万あっても粟なければ守れない」との言葉を引き、粟こそ王者の大用・政の本務であるとし、辺郡に粟六百石を入れれば上造の爵、四千石で五大夫、一万二千石で大庶長という段階的な入粟受爵制を提案した。
- 文帝はこれに従い、辺郡入粟令を実施した後、鼂錯はさらに「塞下の食が五歳分足りれば郡県にも入粟を許すべきで、一歳分あれば時に応じ農民の租を赦せば徳沢が万民に加わり民はますます農に勤め、軍役水旱に遭っても困乏しない」と上奏し、文帝は民に十二年分の租税の半分を賜り、翌年には田租を全免、その後十三年目の孝景二年には田租三十分の一に復した。上郡以西が旱魃した際には売爵令の価を裁して民を招き、徒復作にも粟を県官に輸して罪を除くことを許した。苑馬を初めて造り、宮室・車馬も次第に増脩されたが、有司には屡々農を務めよと勅した。民は業を楽しみ、武帝の初め七十年間、国家は水旱に遇う以外は事なく、民は家給し都鄙の廩庾は満ち府庫に財が余り、京師の銭は累百鉅万(数百万万)に及び紐が朽ちて計数できないほど、太倉の粟は陳陳相因って露積し腐って食べられぬほど溢れ、街巷には馬が仟伯の間に群れをなし、牝馬に乗る者は擯けられて会同できぬほど富饒であった。閭閻を守る者すら粱肉を食い、吏は長らく官にあって子孫を養い、居官の姓号を持つ者もあり、人々は自らを愛して犯法を恥じた。しかしその後、罔が疎になり民が富み財に驕り、豪党が武断する弊も現れた。
董仲舒の重農・限田論と武帝末年の農政改革
- 武帝が四夷討伐と功利に力を入れ民が本業を去るようになると、董仲舒は「『春秋』が他の穀物を書かず麦禾の不成のみを書くのは聖人が麦と禾を最も重んじたからだ。関中の俗は麦を種えることを好まぬが、これは春秋の重んじる所を失い生民の具を損なうものだ」と説き、関中に宿麦(冬麦)を益々種えるよう詔すべきだと上言した。また「古は税民什一に過ぎず、その求めは供し易く、使民は三日を過ぎず、その力は足り易かった」が、秦は商鞅の法を用いて帝王の制を改め井田を除いて売買を許したため、富者は田畮が仟伯に連なり貧者は立錐の地もなくなり、川沢山林の利も専有され、豪奢が僭上し邑には人君の尊、里には公侯の富があるほどとなった。加えて更卒・正卒の力役は古の三十倍、田租口賦鹽鉄の利も古の二十倍に及び、豪民の田を耕す者は収穫の五割を取られる(見税什五)ため、貧民は牛馬にも劣る衣食で貪暴の吏の刑戮を受け、山林に逃れて盗賊となる者が相次いだ。井田法をそのまま復すのは難しいにせよ、名田(占有田)を限って不足を澹し、兼并の路を塞ぎ塩鉄を民に帰し奴婢を去り専殺の威を除き、賦斂を薄くし繇役を省くべきだと説いた。仲舒の死後、費えはますます増え天下は虚耗し人が相食むほどになった。
- 武帝は末年に征伐を悔い、丞相を富民侯に封じ、「今の務めは力農にある」と詔し、趙過を捜粟都尉として代田法(一畮三甽、隔年で畮の甽の位置を替える)を行わせた。古法(后稷の甽田)に基づき二耜を耦して広深各一尺の甽を作り、苗が育つにつれ隴の草を耨いてその土を苗根に附し、詩「或は芸り或は芓う、黍稷儗儗たり」のように盛んに育たせ、風旱にも耐えるものとした。十二夫で一井一屋(今の五頃)とし、耦犂二牛三人を用いれば一歳の収穫は畝ごとに縵田(甽を作らぬ田)より一斛以上、善い者は二斛以上多かった。趙過は太常・三輔に教田させ、大農は工巧の奴を置いて田器を作らせ、二千石は令長・三老・力田・里父老に田器と耕種法を学ばせた。牛が少ない民には平都令の光が人力で犁を輓く方法を教え、庸(雇用)で相輓かせる法を広め、多い者は日に三十畮、少ない者でも十三畮を耕せるようになり田は多く墾闢した。離宮卒に壖地(外垣内・内垣外の余地)を試耕させると畝一斛以上も増収し、命家に三輔の公田を耕させ、辺郡・居延城にも教えを広めた結果、辺城・河東・弘農・三輔・太常の民は力少なくして穀多く得た。昭帝の時には流民が次第に還り田野が益々闢け、蓄積も生じた。宣帝が即位し賢良を多く用いると百姓は安土し数年豊穣が続き穀は石五銭に至り農人の利は少なかった。
- 大司農中丞耿寿昌は算術に長け、五鳳年間、それまで関東から京師へ年四百万斛を漕運し卒六万人を要していたのを、三輔・弘農・河東・上党・太原の穀で京師に供給すれば漕卒を半分以上省けると上言し、また海租を三倍に増すことも上白し、天子はいずれも従った。御史大夫蕭望之は、過去に海租を加えて以来魚が獲れなくなったとの故事や、寿昌の近糴漕関内策には築倉・治船の費用二万万余がかかり衆を動かす功があり旱気を生じかねないと反対したが、上は聞き入れず、漕事は結果として便であった。寿昌はさらに辺郡に倉を築き穀賤の時に価を増して糴い穀貴の時に価を減じて糶る「常平倉」を提案し民に便し、寿昌は関内侯に封ぜられた。蔡癸も農を好み郡国を勧めて大官に至った。
- 元帝の即位後、天下大水・関東十一郡が特に被害を受け、翌年には斉地で饑饉、琅邪郡では人相食む惨状となり、諸儒の多くが塩鉄官・北仮田官・常平倉の廃止を建言し、上はこれに従い罷めた。また建章・甘泉宮の衛・角抵・斉三服官も廃し禁苑を貧民に与え、諸侯王廟の衛卒・関中卒を減らし、穀を転じて窮乏を振貸したが、その後用度不足のため塩鉄官のみ復した。成帝の時は天下に兵革なく安楽とされたが俗は奢侈で蓄聚を意としなかった。永始二年、梁国・平原郡で水災が続き人相食み、刺史・郡守が坐して免官された。哀帝の即位後、師丹が輔政して「古の聖王は皆井田を設けそれによって治めた。孝文皇帝は亡秦の兵革の後を承け農桑を勧め節倹を帥いたので民が充実し兼并の害がなく田・奴婢の限を設けなかったが、今は累世承平し豪富吏民の資財は鉅万に及ぶ一方貧弱は益々困窮している。君子は政において因循を貴び改作を重んずるが、改める理由は急を救うためだ」として限田を建言した。天子はこれを丞相孔光・大司空何武に議させ、諸侯王・列侯(国中)・公主(長安)・関内侯・吏民の名田をそれぞれ三十頃以下に限り、奴婢も諸侯王二百人・列侯公主百人・関内侯吏民三十人を上限とし三年で違反者を没収する案を奏請したが、当時田宅奴婢の価が下落することを丁氏・傅氏や董賢ら用事の家が嫌ったため詔書は「後を待て」とされたまま沙汰止みになった。宮室苑囿府庫の蓄えは既に侈り、百姓の資富は文景に及ばぬものの天下の戸口は最盛であった。
- 平帝の崩後、王莽は居摂しついに帝位を簒った。莽は漢の承平の業を承け匈奴も藩を称し百蛮も賓服し府庫百官の富も天下晏然としていたが、心なお満たず漢家の制度を陿小(不十分)と見なして改めた。宣帝が単于に天子と同等の印璽を賜っていたことや西南夷の鉤町が王を称していたことを改め単于の印を貶し鉤町王を侯に貶めたため両者が怨み侵犯し、莽は三十万の大軍を発して匈奴討伐を企図し、天下の囚徒・丁男甲卒を募り兵器を転輸させ海内を騒がせた。また慕古に過ぎて時宜に合わせず州郡を分裂し官職を改めた末、「漢氏は田租を三十に一と軽くしたが更賦は罷癃にも及び、豪民の侵陵で分田刼仮の名目は三十だが実質什五の税を取り、富者は質して邪となり貧者は窮して姦となる」として、天下の田を「王田」、奴婢を「私属」と改め売買を禁じ、男口八人未満で一井を超える田は九族郷党に分けさせるなど強行し、法が定まらぬまま吏がこれに乗じて姦を為し天下は謷謷然として刑に陥る者が多かった。三年後、莽は民の愁いを知り王田・私属の売買を許したが、刑罰は依然深刻で辺兵二十余万が県官の衣食を仰ぎ用度が足らず数々賦斂を横にし民はますます困窮した。末年には盗賊が群起し、北辺・青徐で人相食み雒陽以東では米一石二千銭に達し、莽は三公将軍に東方諸倉を開かせ窮乏を振貸し、木を煮て酪を作らせたが食用にならず民をさらに煩わせた。流民が関に入る者数十万人、養澹官が稟しても吏がこれを盗み、饑死する者は十に七、八に及んだ。莽は自らの政に恥じ「予は陽九の阨百六の会に遭い、枯旱霜蝗饑饉が薦り臻り蛮夷が夏を猾し寇賊姦軌により百姓が流離す、予は甚だこれを悼む。害気将に究きんとす」との詔を下したが、こうした言葉を重ねるうちに国は亡びに至った。
貨(貨幣・財政制度)
貨幣の起源と管仲の軽重論
- 貨幣・金銭・布帛の用は夏殷以前は詳らかでない。太公望は周のために九府圜法を立てたという。黄金は方寸で一斤、銭は円形で方孔(円函方)、軽重は銖で量り、布帛は広二尺二寸・長四丈を匹とした。貨は金に「宝」、刀(銭)に「利」、泉(銭)に「流」、布に「布」、帛に「束」の徳があるとされ、太公はこれを斉にも行った。管仲が桓公を相けると軽重の権(穀の貴賤・令の緩急に応じ物の軽重を操作する政策)を説き、人君が理(管理)しなければ蓄賈が市に游んで民の不給に乗じ百倍の利を得てしまうため、万乗の国には必ず万金の賈がいる。人君は民が余れば軽く見て斂め、不足すれば重く見て散じ、輕重斂散を時宜に行えば凖平(安定)が保たれ、万室の邑には万鍾の蓄え(繈銭千万相当)、千室の邑には千鍾の蓄え(繈銭百万相当)があり、耒耜器械種饟糧食の供給に充て、大賈畜家が民から豪奪できぬようにした。桓公は区々たる斉により諸侯を合わせ覇名を顕した。
- その後百余年、周の景王の時、銭が軽いことを患えて大銭を鋳ようとしたが、単穆公は「古は天の災戻に応じ資幣の軽重を量って民を救った。民が軽きを患えば重幣を作って母(重幣)が子(軽幣)を権り両者を並び行わせるのが道理で、王が軽を廃し重のみ作れば民は資を失い王用も乏しくなり民が離れる。川原を塞いで潢洿を作るようなもので竭きる日が近い」と諫めたが聞かれず、大銭「宝貨」(肉好に周郭あり)が鋳造された。
- 秦は天下を併せ貨幣を二等とし、黄金は溢を単位とする上幣、銅銭は「半両」の文で周銭と同質の下幣とし、珠玉亀貝銀錫の類は器飾宝蔵とし幣とはしなかった。漢が興ると秦銭が重く使いにくいため莢銭に改めさせ黄金は一斤を単位に戻したが、不軌の民が畜積して市物を高騰させ米は石万銭・馬は匹百金にまで達した。天下平定後、高祖は商人に絹を着させず車に乗せず重税で困辱させ、孝恵・高后の時は商賈の律を弛めたが市井の子孫は官吏になれなかった。文帝五年、銭が多くなり軽くなったため四銖銭(半両の文)に改め盗鋳銭令を除いて民の私鋳を許した。
賈誼の鋳銭論と文景の貨幣政策
- 賈誼は「法が天下に公然と顧租(雇賃・借地)して銅錫で銭を鋳ることを許し、鉛鉄を雑えれば黥罪とするが、雑えねば利益が出ない鋳銭の実情からすれば、微かに雑えて厚利を得る誘惑は黥罪があっても止まらない。細民に鋳造の権を与えては、隠れて鋳造し密告により罪に落ちる者が多発し、県法(法網)を張って民を陥穽に誘い込むようなものだ。かつて鋳銭を死罪で禁じても罪人は絶えなかったのに、今は公然と鋳させながら黥罪を科すというのでは、法の権威も保てない」と諫めた。また郡県で通用する銭の軽重が異なり「法銭」が定まらないため、市場の混乱を招いていると指摘し、農事を棄てて銅を採る者が日々増え、姦銭が多くなり五穀が増えないこと、鋳銭により銅が天下に広まり禍が大きいことを説いた。上収銅により民が鋳銭せず黥罪が減る(一)、偽銭が増えず民が疑わない(二)、採銅の民が耕田に戻る(三)、銅が上に帰し軽重を操作できる(四)、兵器を作り賞賜の制を立てられる(五)、万貨を調え竒羨を収め官が富み末業の民が困る(=農本に有利)(六)、棄財を匈奴との争いに用いれば敵が懐く(七)、という「七福」を説き、久しく七福を退けて博禍(銅の弊害)を行う現状を傷んだが、上は聞かなかった。この時、呉は諸侯として即山鋳銭を行い富は天子に埒しく後に叛逆し、大夫の鄧通も鋳銭で財を蓄え、呉・鄧の銭が天下に布いた。
武帝の財政窮乏と諸政策
- 武帝は文景の蓄えを因り胡越との争いを憤り、即位数年で嚴助・朱買臣らの東甌招徠、両越・江淮間の経営に費えを重ね、唐蒙・司馬相如の西南夷開通(千余里の山道開鑿)で巴蜀の民は疲弊し、彭吳の穢貊・朝鮮開通による滄海郡設置で燕斉の間が動揺し、王恢の馬邑謀略で匈奴と和親が絶え北辺の兵禍が連年続き天下がその労を共にした。この頃から桑弘羊・東郭咸陽・孔僅ら興利の臣が登用され始めた。
- 衛青が数万騎で匈奴を撃ち河南地を取り朔方を築き、西南夷道の建設にも数万人を要して千里を運搬し十余鍾でようやく一石を届ける有様、卭僰への散幣、南夷の初郡設置と豪民の田南夷入粟制度、滄海郡設置、朔方築城衛など出費は数十百鉅万にのぼり府庫は虚となり、民から奴婢を入れる者に終身の復(免役)や増秩、羊を入れて郎となる制度も始まった。衛青の再度の遠征では戦功者に黄金二十余万斤を賜り軍馬の死は十余万に及び、大司農の常用の銭・賦税も竭き、武功爵(造士から軍衛まで十一等の売爵制度、直三十余万金)が新設され、軍功による超等の抜擢(大なる者は封侯卿大夫、小なる者は郎吏)で官職の秩序も乱れ始めた。
- 公孫弘は春秋の義で臣下を縛り、張湯は峻文で廷尉となり「見知の法」(見て知りながら告げなければ故縦とみなす連座制)が生まれ、廃格沮誹の獄も窮治された。淮南・衡山・江都王の謀反が発覚しその党与で死んだ者は数万人、吏はますます酷急となった。この頃、方正賢良文学の士を招き公孫弘のような質素な宰相もいたが、俗を改める効果は乏しく功利に傾いた。
- その後、票騎(霍去病)の再出撃で渾邪王ら数万が降り車三万両で迎え費用は百余鉅万、黄河の決壊(梁楚地)や番係の底柱漕運改良、鄭当時の渭漕直渠、朔方の灌漑工事などにそれぞれ数万人を動員し費用は各々鉅万十数(十万万)に及んだ。伐胡のための養馬にも数万匹分の食を要し関中では足らず近郡から調達、降胡数万人にも厚く衣食を給し、天子は膳を損じ乗輿の駟馬を解いて禁府の蔵で澹した。翌年山東の水災では倉廩を虚しくして振貧したが足りず、貧民七十余万口を関以西・朔方以南の新秦中に移し衣食を給し費用は億計に及んだ。県官は大いに空となる一方、富商賈は財を滞らせ貧者を役し、封君すら商賈に仰ぎ給する有様であった。
- そこで天子は公卿と貨幣制度の改鋳を議し、白鹿皮幣(一尺四十万相当)や白金三品(龍紋の重八両で直三千、馬紋で直五百、亀紋で直三百)、三銖銭を新造したが盗鋳が絶えず、東郭咸陽・孔僅を大農丞として塩鉄事業を統括させ、桑弘羊も台頭した。塩鉄の民営業者(斉の大冶東郭咸陽、南陽の大冶孔僅)を登用し官営塩鉄制度(募民自給費・煑塩官牢盆制度、私鋳私煑には左趾の刑と器物没収)を敷き、僅・咸陽が天下を巡って塩鉄官府を設置した。
- 郡国の窮乏対策として算緍銭(車船・商人資産への課税)や告緡令(脱税密告制度)も強化され、卜式のような自発的献財の例も表彰されたが多くの豪富は財を匿した。有司はさらに算緍を強化し、家財に応じて算銭を課し、賈人の市籍者・家族に田を持たせない制度も設けた。
- 白金・五銖銭の鋳造後五年で盗鋳の罪に問われ死んだ吏民は数十万、発覚せぬまま相殺す者も数知れず、赦されて自首した者も百余万に及んだがそれでも半数に満たず、天下は大凡皆鋳銭を犯していた状態であった。犯法者が多く誅しきれないため、褚大・徐偃ら博士を分遣して兼并の徒・郡国守相の不正を糾察させ、張湯・減宣・杜周ら酷吏が九卿・中丞となり、大農の顔異は白鹿皮幣への疑義(「王侯朝賀の倉璧は数千銭なのに皮薦は四十万銭では本末が釣り合わない」)を腹誹(口に出さず心で非とする罪)とされ処刑された。以後「腹誹の法」が比(判例)となり公卿大夫は諂諛して容を取るようになった。
- 郡国鋳銭の姦鋳が増え、京師に官営の赤仄銭(一当五)を鋳させ賦・官用は赤仄でなければ通用させなかったが数年で廃れ、最終的に上林三官(水衡都尉の均輸・鍾官・弁銅)のみに鋳銭を専らせ、それ以外の郡国銭は廃して銅を三官に回収する制度に至った。楊可の告緡が天下に及ぶと中家以上の多くが告発され、杜周が獄を治め、御史・廷尉正監を分遣して郡国の緡銭を摘発し、没収した民財・奴婢・田宅は億計に及んだ。商賈中家以上は大方破産し、県官は塩鉄緡銭により用度がやや潤った。
- 昆明池の造営(越との水戦訓練のため)、柏梁台の造営など宮室の営みも日々盛んになり、緡銭・没収田は水衡・少府・太僕・大農の各官に分掌され農官が郡県に置かれた。所忠の建言で世家子弟・富人の博戯を取り締まる「株送徒」制度もでき、財を入れた者は郎に補された。山東の河災・凶作で人相食む惨状に対し流民を江淮間に流し就食させる政策や、天子の巡幸(隴西守・河東守の自殺事件など)、北地郡の辺備不足による太守誅殺、辺県での官馬貸与制度(三年で返還・十分の一の利息)など多岐にわたる施策が行われた。
- 宝鼎発見・后土泰一祠の建立を機に封禅も議され、郡国は道を整備した。南粤反・西羌侵の対応で山東の窮乏を受け天下の囚人を赦し楼船士二十余万で南粤を撃ち、張掖・酒泉郡設置、上郡・朔方・西河・河西の屯田(斥塞卒六十万人)など軍事拡大が続き、経費は遠く三千里・近くも千余里の輸送を要し大農が仰ぎ給した。牡馬の官出制度も設けられ、卜式の南粤従軍上書に対する褒賞、酎金失侯事件(百余人の列侯が金の目減りで爵位を失う)なども起きた。卜式は御史大夫となり、塩鉄器の粗悪や強制販売、船の課税(算船)などの弊害を指摘したが、桑弘羊の主張で船算が実施され漢は羌・両越を滅ぼし初郡十七を置いた(南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠厓・儋耳・武都・牂柯・越嶲・沈黎・汶山・犍為・零陵・益州の各郡)。
- 元封元年、卜式は太子太傅に転じ桑弘羊が治粟都尉・大農として塩鉄を統轄し、均輸・平準の制度(大農部丞を郡国に置き遠方の貢納品を商人の転売に代わり官が調達・輸送し、京師に平準を設けて富商大賈の暴利を抑える仕組み)を確立した。これにより民に賦を益さず天下の用は饒かになったとされ、弘羊は左庶長の爵と黄金二百斤を賜った。小旱の際、卜式は「弘羊が吏に市列で利を求めさせているのが原因」として弘羊を烹るべきと諫言したという逸話も残る。武帝の死後、昭帝は弘羊を御史大夫としたが、昭帝六年、賢良文学の士は鹽鉄・酒榷・均輸官の廃止を主張し、弘羊はこれに反論し国家の大業として存続を主張、酒酤のみ廃された。弘羊は自らの功を恃み子弟の任官を望んで怨望し、上官桀らと謀反を企て霍光に誅滅された。
- 宣・元・成・哀・平の五世は大きな変改なく、元帝の時一時罷めた塩鉄官も三年で復した。貢禹は「鋳銭採銅に年十万人を要し民が盗鋳で刑に陥る、富人は銭を蔵しても飽くことなく、民心が動揺し本業を棄て末業に走るのは銭に起因する。採珠玉金銀鋳銭の官を廃し租税禄賜を布帛穀で行うべき」と献言したが、交易に不便として議は寝んだ。孝武帝元狩五年の三官鋳銭以来、平帝元始年間までに鋳造された五銖銭は総額二百八十億万余に及んだという。
王莽の貨幣改革と経済崩壊
- 王莽は居摂すると漢の貨幣制度を改め、周銭の子母相権の理念に基づき大錢五十(径寸二分、重十二銖)、契刀五百、錯刀一刀直五千を新造し五銖銭と合わせ四品を並行させた。帝位に即くと「劉」字に金・刀が含まれることを忌んで錯刀・契刀・五銖銭を廃し、金銀亀貝銭布の新制度「宝貨」(小銭直一から次第に大きくなる銭貨六品、黄金・朱提銀・它銀の銀貨二品、亀甲の大きさによる亀宝四品、貝殻の大きさによる貝貨五品、大布から小布までの布貨十品、総計五物六名二十八品)を定めたが、複雑すぎて民が混乱し五銖銭を密かに使い続けたため、莽は井田を非とし五銖銭を挟持する者を「惑衆」として四裔に流す厳罰を科した。農商は業を失い民は市道で泣き、田宅奴婢の売買・鋳銭で罪を得る者が公卿大夫から庶人まで数え切れないほどになった。莽は民の愁いを知り小銭と大銭の二品併用に戻した。
- 国師公劉歆の献策により周の泉府の制度(売れ残りを官が買い取り、求める者に官が与える)や『易』の「理財正辞、民の非を為すを禁ず」の理念に基づき、賒貸(無利子・低利子の貸付)・五均(市場価格の統制と貧富の均衡)の制度を敷き、長安・洛陽・邯鄲・臨菑・宛・成都の六都に五均官(市長・交易丞・銭府丞)を置き、山林川沢の産物や浮遊無事の民にまで細かく課税し、その利十分の一を貢とした。四時の中月ごとに物価の上中下を定め市場の平準を図り、物価が平を超えれば平価で放出し、平を下回れば民の自由売買に任せて貴い買占めを防いだ。祭祀喪紀の資金は空賒(無利子貸付、旬日・三月の期限)とし、産業資金は什一の利息で貸し付ける制度も設けた。羲和魯匡の献言により、名山大沢・塩鉄銭布帛・五均賒貸を県官が斡(管理)する中、酒だけは民間に残っていたが、詩・論語それぞれの故事を引きつつ官営の酒専売(「均」を単位とする醸造規定、利益の十分の七を官に納める)も加えられ、五均六斡(六つの専売分野)は郡ごとに富賈を任じて運用されたが、彼らは官と結託し姦をなし空簿を張って府蔵は実らず、百姓はますます疲弊した。
- 天鳳元年には貨幣制度を再改定し、大小銭を廃し「貨布」(長二寸五分、直貨泉二十五)と「貨泉」(径一寸、直一)の二品に整理したが、大銭廃止に伴う移行の混乱で民は業を破り刑に陥る者が多く、私鋳の罰則も度々改められた末、匈奴侵寇の激化に伴い天下の囚徒・奴を募った「豬突豨勇」の徴発、軍馬の官民分担飼育、吏民への強制的な賦斂が重なり、枯旱・蝗害も相まって公侯から小吏まで俸禄すら支給されない有様となった。富者も自ら保てず貧者は存立できず、盗賊が青徐荊楚の地に群起し、辺境では四夷に虜われ饑疫で人相食む惨状が広がり、王莽が誅される前に天下の戸口はすでに半減していた。豬突豨勇の徴発から四年後に漢軍が莽を誅し、さらに二年後、世祖(光武帝)が受命して煩苛を盪滌し五銖銭を復して天下は更始した。
史論
- 賛にいう。『易』は「多きを裒めて寡きを益し、物を称りて施すを平らかにす」と称え、『書』は「有無を勧勉して遷す」と説き、周には泉府の官があり、孟子もまた「狗彘が人の食を食むのに斂めることを知らない」(豊年に穀物を蓄えないこと)や「野に餓莩あるを発するを知らない」ことを非とした。ゆえに管仲の軽重の論、李悝の平糴、桑弘羊の均輸、耿寿昌の常平も、いずれも古よりの由来があるものだった。ただ古はこれを行うにも数(限度)があり、吏が良ければ令が行われ、民はその利に頼り万国は治まった。孝武帝の時、国用は饒かでも民に賦を益さなかったのは、その次善であった。しかし王莽の代に至っては制度が中を失い姦軌が権を弄び、官も民もともに竭き尽くし、最も劣った結末となった。