漢書卷二十一 律歴志第一
序論 志の趣旨
- 『書経』虞書に「律・度・量・衡を統一する」とある。遠近の人心を等しく治め、民の信を立てるためである。伏羲が八卦を画いて以来、数はここに起こり、黄帝・堯・舜の代に至って備わった。夏・殷・周の三代はこれを考証して法度を明らかにした。
- 周が衰えて官が失われた後、孔子は先王の法として「権量を謹み、法度を審らかにし、廃官を修め、逸民を挙げよ」と述べ、これが行われれば四方の政が行われるとした(権=斤両、量=斗斛、法度=丈尺、逸民=徳ある隠者)。
- 漢が興ってから北平侯張蒼が最初に律暦の事を定めた。武帝の代に楽官がこれを考正し、元始年間(平帝の世)に王莽が名誉を求めて天下から鐘律に通じた者百余人を集め、羲和劉歆らに条奏させた。その論述が最も詳しいため、班固は偽りの辞を削り正義を取ってこの志を著した。以下、備數・和聲・審度・嘉量・權衡の五事を三と五を参互錯綜させてその数を明らかにし、古今に照らし気物に験し、心耳に和し経伝に考えて、すべて実に合致し協同するものである。
数のこと(備數)
- 数とは一・十・百・千・万である。物事を算え、性命の理に従うためのもの。書に「まず算えて命ず」とあるのは、王者が事業を統べるにはまず算数を立てて百事に命ずることをいう。
- 数の起源は黄鐘の律にある。一に始まり、三倍を重ねて十二辰を経ることで十七万七千百四十七という数に至り、五行の数が備わる。
- 算木は竹製で、径一分・長さ六寸のものを二百七十一枚用いて六角形(六觚)に束ね、これを一握とする。径は乾の律たる黄鐘の一に象り、長さは坤の呂たる林鐘の長さに象る。易の大衍の数五十のうちその用は四十九であり、陽が六爻を成して周流六虚の象を得る。
- 暦を推して律を生じ、器を制するには円は規に、方は矩に、重さは権衡に、平は準縄に則り、量を嘉くするにはこれらすべてを用いる。長短を度るには毫釐を失わず、多少を量るには圭撮を失わず、軽重を権るには黍絫を失わない。一に紀し、十に協い、百に長じ、千に大きく、万に衍する。その法は算術にあり、天下に広く行われる小学の一つであり、職掌は太史・羲和にある。
音律のこと(和聲)
- 声とは宮・商・角・徴・羽である。楽を作るのはこの八音を諧調させ、人の邪心を洗い去り、正しい本性を全うして風俗を移し変えるためである。八音とは、土(塤)・匏(笙)・皮(鼓)・竹(管)・絲(絃)・石(磬)・金(鐘)・木(柷)である。五声が和し八音が諧って楽が成る。
- 商は「章」(物が成熟して際立つ意)、角は「触」(物が地を突いて角のように芽吹く意)、宮は「中」(中央にあって四方を暢らし万物を生じさせる意)、徴は「祉」(物が盛んになり殖える意)、羽は「宇」(物が蔵われ覆われる意)を意味する。五声を五行・五常・五事・君臣民事物に配当すると、角は木・仁・貌・民、商は金・義・言・臣、徴は火・礼・視・事、羽は水・智・聴・物、宮は土・信・思・君にあたる。
- 五声のもとは黄鐘の律(九寸)を宮とし、損益を重ねて商・角・徴・羽を定める、九六相生の陰陽の応である。十二律のうち陽の六を律、陰の六を呂という。
- 律:黄鐘・太族・姑洗・蕤賓・夷則・亡射(無射)
- 呂:林鐘・南呂・応鐘・大呂・夾鐘・中呂(仲呂) これらに三統(天統・地統・人統)の意味がある。伝によれば黄帝が泠綸に命じ、崑崙山の陰の谷から竹を取らせ、鳳の鳴き声(雄六・雌六)に合わせて十二の律管を作らせたのが律の起源とされる。
- 十二律にはそれぞれ月と意味が配当される:黄鐘(十一月、陽気が黄泉に種を施す)・大呂(十二月)・太族(正月)・夾鐘(二月)・姑洗(三月)・中呂(四月)・蕤賓(五月)・林鐘(六月)・夷則(七月)・南呂(八月)・亡射(九月)・応鐘(十月)。それぞれの名の由来(陰陽の消長を表す語義)が説かれる。
- 三統説:十一月・乾の初九にあたり、黄鐘は天統で律の長さ九寸(九は中和を究める数)。六月・坤の初六にあたり、林鐘は地統で律の長さ六寸。正月・乾の九三(人が寅に生まれ仁義を行う)にあたり、太族は人統で律の長さ八寸(八卦に象る)。黄鐘が宮となるときは太族・姑洗・林鐘・南呂がすべて正声で応じ、これが一統の義である。
- 律呂相生の法(三分損益):黄鐘から三分損一して林鐘を生じ、林鐘から三分益一して太族を生じ、以下同様に損益を繰り返して十二律すべてを生ずる(林鐘→太族→南呂→姑洗→応鐘→蕤賓→大呂→夷則→夾鐘→亡射→中呂)。陰陽相生は黄鐘に始まり左旋して八八相対する。この法はすべて銅を用いて作り、大楽・太常の職掌である。
度量衡のこと
度(長さ)
- 度とは分・寸・尺・丈・引であり、長短を度るもの。黄鐘の律管の長さに基づき、中くらいの黒黍(秬黍)一粒の広さを一分とし、九十分で黄鐘の長さ(九寸)とする。十分=一寸、十寸=一尺、十尺=一丈、十丈=一引。器の法は銅を用い、高さ一寸・広さ二寸・長さ一丈のものに分寸尺丈の目盛りを刻む。竹を用いて引を作る場合は高さ一分・広さ六分・長さ十丈とする。職掌は内官・廷尉(法度の起源にちなむ)。
量(体積)
- 量とは龠・合・升・斗・斛であり、多少を量るもの。黄鐘の龠に基づき、中くらいの秬黍千二百粒をその龠に満たし、井戸水で表面を均して基準とする。二龠=一合、十合=一升、十升=一斗、十斗=一斛。法量は銅を用いて方一尺・外周を円くし、上部を斛、下部を斗、左耳を升、右耳を合龠とする、爵に似た形とする。重さ二鈞、容量の合計は一万一千五百二十(黍の数に基づく気物の数)。職掌は太倉・大司農(穀物の量にちなむ)。
衡權(重さ)
- 衡は平ら、権は重さを量るもの。黄鐘の龠に容れる千二百黍の重さを十二銖とし、二十四銖=一両、十六両=一斤、三十斤=一鈞、四鈞=一石とする。この体系には銖・両・斤・鈞・石の五権があり、それぞれに陰陽・四時・十二月などの数理的な意味づけがなされる(両=二十四気の象、斤=三百八十四銖=易二篇の爻数の象、鈞=均しく成就する意、石=物の窮まりの意で四鈞=四時の象、百二十斤=十二月の象)。権と物とが釣り合って衡が生じ、衡が回転して規を生じ、規が円を生じて矩を生じ、矩が方を生じて縄を生じ、縄が直を生じて準を生ずる(五則)。職掌は大行・鴻臚。
暦学の沿革
- 歴数の起源は古く、伝に顓頊が南正の重に天を、火正の黎に地を司らせたと伝わるが、三苗が乱れてこの二官が廃れ、閏の運用も乱れた。堯が重黎の後裔にこの職を継がせ、羲和に命じて日月星辰を観測させ、一年を三百六十六日とし閏月で四時を定めた(『書経』堯典)。舜、禹へと伝えられ、周の武王が箕子に問うたときも五紀(歳・月・日・星・辰)を明らかにする暦法が説かれた。
- 三代(夏殷周)はそれぞれ創業に際し暦紀・服色を改めたが、五伯の末に史官が紀を失い、疇人の子弟も分散した。秦は五行相勝説により水徳を称し、十月を正月とし黒を尚んだ。
- 漢は秦の正朔を襲用し、北平侯張蒼の言により顓頊暦を用いたが、六暦のうち最も粗であった。正朔・服色も実情に合わず、朔晦弦望の観測も多くずれていた。武帝の元封七年(漢興百二年)、公孫卿・壺遂・司馬遷らが暦の改正を建議し、御史大夫の兒寛らも協議して改暦が決まった。
- 太初元年(元封七年を改元)、鄧平・落下閎ら二十余人が新たな暦(太初暦)を作った。律容一龠積八十一寸を一日の分母とする法(律を以て暦を起こす)を用い、一月を二十九日八十一分の四十三日とした。鄧平を太史丞とした。
- その後、元鳳三年に太史令の張寿王が旧来の黄帝調暦を主張して太初暦を非難したが、鮮于妄人らとの比較検討(十一家の暦法を候校)の結果、太初暦が最も精密であることが確認され、寿王は誹謗の罪で下吏に付された。
- 太初暦から元鳳六年までの三十六年で是非が定まった。成帝の代に劉向が六暦を総合して『五紀論』を著し、その子劉歆がその微妙な点を究めて『三統暦』および譜を作り、これによって『春秋』を説いた。以下、その推法の精密なものを述べる。
統母(暦法の基本定数)
劉歆の三統暦が用いる基本定数を列挙する(数値はすべて底本のまま)。
- 日法=八十一(黄鐘初九の自乗から得る。一日を八十一分とする三統の基本の母数)
- 閏法=十九(章歳=十九年で天地の終数に合う)
- 統法=千五百三十九(閏法×日法)
- 元法=四千六百十七(統法×三統)
- 会数=四十七(天数九×三+地数十×両)
- 章月=二百三十五(五位×会数)
- 月法=二千三百九十二(大衍の象数から得る)
- 通法=五百九十八(月法の四分の一)
- 中法=十四万五百三十(章月×通法)
- 周天=五十六万二千百二十(章月×月法)
- 歳中=十二(三統×四時)
- 月周=二百五十四(章月+閏法)
- 朔望之会=百三十五(天数二十五×三+地数三十×両)
- 会月=六千三百四十五(会数×朔望之会)
- 統月=一万九千三十五(会月×三統)
- 元月=五万七千百五(統月×三統)
- 章中=二百二十八(閏法×歳中)
- 統中=一万八千四百六十八(日法×章中)
- 元中=五万五千四百四(統中×三統)
- 策余=八千八十(周天から中十倍の元中を引いた余り)
- 周至=五十七(閏法×三)
五星(木・火・土・金・水)についても、それぞれ「歳数」「見中分」「積中」「見中法」「見閏分」「積月」「見月法」「見中日法」「見月日法」等の定数が示される。
- 歳星(木):小周十二(木数三×金数四の相乗)、歳数千七百二十八。見中分二万七百三十六、積中十三・中余百五十七、見中法千五百八十三、見閏分一万二千九十六、積月十三・月余一万五千七十九、見月法三万七十七、見中日法七百三十万八千七百十一、見月日法二百四十三万六千二百三十七。
- 太白(金):小周十六、歳数三千四百五十六。見中分四万千四百七十二、積中十九・中余四百十三、見中法二千百六十一、見閏分二万四千百九十二、積月十九・月余三万二千三十九、見月法四万千五十九。晨見の中分二万三千三百二十八・積中七・中余千七百十八、夕見の中分一万八千百四十四・積中八・中余八百五十六、晨閏分一万三千六百八・積月十一・月余五千百九十一、夕閏分一万五百八十四・積月八・月余二万六千八百四十八。見中日法九百九十七万七千三百三十七、見月日法三百三十二万五千七百七十九。
- 鎮星(土):小周三十(土数五×木数六の相乗)、歳数四千三百二十。見中分五万千八百四十、積中十二・中余千七百四十、見中法四千百七十五、見閏分三万二百四十、積月十二・月余六万三千三百、見月法七万九千三百二十五、見中日法千九百二十七万五千九百七十五、見月日法六百四十二万五千三百二十五。
- 熒惑(火):二年ごとに軌道を一周超え、大周は一万三千八百二十四歳。見中分十六万五千八百八十八、積中二十五・中余四千百六十三、見中法六千四百六十九、見閏分九万六千七百六十八、積月二十六・月余五万二千九百五十四、見月法十二万千九百十一、見中日法二千九百八十六万七千三百七十三、見月日法九百九十五万五千七百九十一。
- 辰星(水):大周は九千二百十六歳。見中分十一万五百九十二、積中三・中余二万二千四百六十九、見中法二万九千四十一、見閏分六万四千五百十二、積月三・月余五十一万四百二十三、見月法五十五万千七百七十九。晨見の中分六万二千二百八・積中二・中余四千百二十六、夕見の中分四万八千三百八十四・積中一・中余一万九千三百四十三、晨閏分三万六千二百八十八・積月二・月余十一万四千六百八十二、夕閏分二万八千二百二十四・積月一・月余三十九万五千七百四十一。見中日法一億三千四百八万二千二百九十七、見月日法四千四百六十九万四千九十九。
- 陰陽二気を合わせた歳数を中分すればそれぞれ一万一千五百二十で、陽がその気を施し陰がその物を成す関係を表す。星の見数は、行率を歳数から差し引いて求める。東九・西七を掛けて足したものを法とすれば金星・水星の晨夕の歳数が得られる、等の換算規則が続く。
五歩(五星の運行の実測値)
木・火・土・金・水の各星について、見え始めから留・順行・逆行・伏を経て再び見えるまでの日数と、その間に進む度数を細かく記す(数値は底本のまま)。
- 木星:日の半次先で見え始め、順行で二百二十一日(十一分度の二百二十一の割合)進んで留(二十五日)、逆行(八十四日、七分度の一)でまた留(二十四日と三分)、再び順行して伏する。一見(見え始めから伏するまで)は三百六十五日と百八十二万八千三百六十五分の一で、実際に進む度数は三十度と百六十六万千二百八十六分の一。伏している間は三十三日と三百三十三万四千七百三十七分の一で三度百六十七万三千四百五十三分の一進む。通算して一見は三百九十八日五百十六万三千百二分、進む度数は三十三度三百三十三万四千七百三十七分の一。この比率から「一日に千七百二十八分度の百四十五を行く」とまとめられる。
- 金星:晨(明け方)に見え始め、逆行六日・留八日の後、順行に転じて四十六日、さらに疾行して八十四日進み、伏する。晨の見の合計二百四十四日で二百四十四度進み、伏する間に一度九十二分度の三十三あまりを八十三日で進む。晨の見伏あわせて三百二十七日で三百五十七度。夕に見え始めてからも同様の順行・留・逆行・伏の過程を経て、一見伏の合計は二百五十七日百二十九万五千三百五十二分で二百二十六度六百九十万七千四百六十九分。晨夕通じての一復は五百八十四日百二十九万五千三百五十二分で、進む度数もこれに等しく、「一日一度を行く」とまとめられる。
- 土星:晨に見え始め順行八十七日・留三十四日、逆行八十一日・留三十三日と八十六万二千四百五十五分、また順行八十五日で伏する。一見は三百四十日八十六万二千四百五十五分で、進む度数は五度四百四十七万三千九百三十分。伏している間は三百三十七日で七度進む。通算した一見は三百七十七日千八百三万二千六百二十五分、進む度数十二度千三百二十一万五百分。「一日に四千三百二十分度の百四十五を行く」とまとめられる。
- 火星:晨に見え始め順行二百七十六日・留十日、逆行六十二日・留十日、また順行二百七十六日で伏する。一見は六百三十四日で三百一度進む。伏する間は百四十六日千五百六十八万九千七百分で百十四度進む。通算した一見は七百八十日千五百六十八万九千七百分、進む度数は四百十五度八百二十一万八千五分。「一日に一万三千八百二十四分度の七千三百五十五を行く」とまとめられる。
- 水星:晨に見え始め逆行一日・留二日、順行七日・疾行十八日で伏する。晨の見の合計二十八日で二十八度、伏する間は三十七日一億二千二百二万九千六百五分で六十八度。晨の見伏の合計は六十五日一億二千二百二万九千六百五分で九十六度。夕に見え始めてからも同様の過程で、夕の見伏の合計は五十日で十九度七千五百四十一万九千四百七十七分。晨夕通じての一復は百十五日一億二千二百二万九千六百五分で、「一日一度を行く」とまとめられる。
統術(暦を推算する方法)
日月・五星の運行を暦の元・統・章・月・気・閏などに割り付けて算出する手続きを列挙する(各項とも「○○を推すには、△△の数を用いて□□の法で割り、その商と余りから求める」という形式)。
- 推日月元統:太極上元からの経過年数を元法で割り、余りが統に満たなければ天統(甲子起点)の年数、さらに統で割った余りが地統(甲辰起点)、さらに割った余りが人統(甲申起点)の年数となる。
- 推天正:章月を人統の歳数に掛け、章歳で割った商を積月、余りを閏余といい、閏余が十二以上ならその歳に閏がある。地正はこれに一を、人正には二を加える。
- 推正月朔:月法を積月に掛け日法で割った商を積日、余りを小余といい、小余が三十八以上ならその月は大の月。大余(積日を六十で割った余り)を統首の日から数えて朔日を求める。次の月は大余に二十九・小余に四十三を加える。弦は大余に七・小余に三十一を加え、望は弦の倍とする。
- 推閏余所在:閏余に十二を掛けて十を加え、章中の数で割った商により、その中気が冬至から何番目かを求める。中気が朔にあれば当月、二日目にあれば前月が閏月。
- 推冬至:算余を人統の歳数に掛け統法で割った商・余りから冬至の日を求める。
- 求八節:大余に四十五・小余に千百を加える。求二十四気:大余に十五・小余に千十を三分の一ずつ加える。
- 推中部:二十四気はすべて元を法として推す。
- 推五行:木・火・金・水の四行はそれぞれ七十三日と統歳の七十七分の一を割り当て、中央(土)は十八日と統法の四百四分の一を割り当てる(冬至後の中央は二十七日六百六分)。
- 推合晨所在星以下:積日に統法・十九を掛けて周天で割り、牽牛を起点として合朔の瞬間に月日が位置する星宿の度数を求める。以下、夜半の月日の所在、加時(十二辰のいずれに当たるか)、月食の月を推す方法が続く。
紀術(五星の出没を推算する方法)
- 推五星見復:太極上元からの経過年数に各星の大統見復数を掛け、歳数で割った商を定見復数、余りを見復余という。
- 推星所在見中次:見中分を定見復数に掛け見中法で割った商を積中とし、元中・章中・十二で順次割って、星がどの中気・どの次(星紀・玄枵等の十二次)に見えるかを求める。
- 推星見月・推至日・推朔日・推入中次日度数・推入月日数・推後見中・推後見月・推入中次度数・推朔日及入月数・推晨見夕見の各法が同様の形式で示され、最後に推五歩(見え始めてからの日数に行度を掛けて所在の宿度を求める)で結ばれる。
歳術(太歳の所在を推算する方法)
- 推歳所在:上元からの経過年数を歳数で割り、余りに百四十五を掛けて百四十四で割った商を積次、余りを次余といい、積次を十二で割った余りを定次として星紀を起点に数えれば、その年の太歳が十二次のどこにあるかがわかる。太歳の干支は積次余を六十で割り丙子を起点に数えて求める。
- 「歳がその次を棄てて明年の次に移ると鳥帑を害す」(『左伝』)というように、歳星が予定の次を過ぎれば大殃、次を越えなければ小災、越えなければ咎なしとされる。
- 十二次(星紀・玄枵・諏訾・降婁・大梁・実沈・鶉首・鶉火・鶉尾・寿星・大火・析木)それぞれの起点・中気・終点の宿度、および夏・殷・周それぞれの暦での月名対応が細かく記される。さらに二十八宿(角・亢・氐・房・心・尾・箕=東方七十五度、斗・牛・女・虚・危・室・壁=北方九十八度、奎・婁・胃・昴・畢・觜・参=西方八十度、井・鬼・柳・星・張・翼・軫=南方百十二度)の度数が示される。
- 九章=百七十一歳で九道が一巡(小終)し、その三倍の千五百三十九歳で一元と合致する(大終)。この体系により、章首(朔旦冬至の日)の干支表が一元八十一章にわたって列挙される(甲子元首を第一とし、辛酉・己未・丁巳…と続き、各章ごとに孟・仲・季の三部に分かれた干支が示される。表中には対応する周王・魯公の在位年(文王四十二年・周公五年・成十二年・僖五年等)も割注される)。この干支表は暦法上の技術的な一覧であり、内容は上記の通り。
世經(黄帝以来の五徳・王朝年代記)
- 『春秋』昭公十七年、郯子が魯に来朝した際、少昊氏が鳥をもって官名としたいわれを問われ、「黄帝は雲を紀として雲師、炎帝は火を紀として火師、共工氏は水を紀として水師、太昊氏は龍を紀として龍師、私の祖である少昊摯は鳳鳥が飛来したので鳥を紀として鳥師とした」と答えた故事を引き、黄帝は炎帝を承け、炎帝は共工を承け、共工は太昊を承けたとする系譜から、易・祭典等の文献に基づいて歴代の「徳」(五行相生による王朝の徳性)を推定する。
- 太昊(木徳、庖犧氏)→炎帝(火徳、神農氏。共工氏は水徳だが正統な序列には数えない)→黄帝(土徳、軒轅氏。炎帝の後裔と阪泉で戦い天下を得た)→少昊(金徳、金天氏)→顓頊(水徳、高陽氏)→帝嚳(木徳、高辛氏)→帝堯(火徳、陶唐氏)→帝舜(土徳、有虞氏)→伯禹(金徳、夏后氏。継世十七王・四百三十二年)→成湯(水徳、商・殷。継世三十一王・六百二十九年)→武王(木徳、周)と続く。
- このうち秦は水徳を称したが、周と漢(木火)の間に挟まる「閏位」(共工氏に准じる非正統な位置)とされ、正統の序列には数えない。
- 続いて、殷・周の暦元(朔旦冬至の干支や年数)を『尚書』(伊訓・洪範・武成・召誥・洛誥・顧命・畢命等)や『左伝』『国語』の記事と照合しながら、成湯の即位、武王の伐紂(克殷)、周公摂政、成王・康王の各年代を精密に推算する。武王は文王受命九年で即位し、克殷はその十三年目(受命十三祀)、文王は九十七歳、武王は九十三歳で没したとする『礼記』文王世子の記述も引く。
- さらに魯国の年代記(伯禽以下、考公・煬公・幽公・微公・厲公・献公・慎公・武公・懿公・柏御・孝公・恵公・隠公、そして『春秋』の隠公元年から哀公十四年までの二百四十二年)を、各君主の在位年数と朔旦冬至の日付を照合しながら列挙し、殷暦との干支のずれ(一日違いの例が多数指摘される)を検証する。あわせて『左伝』所引の童謡・卜辞・史官の言(卜偃、董因、士文伯、絳県の老人の逸話等)を用いて特定の年の歳星の所在(大火・鶉火・実沈・星紀等)を裏付ける。
- 魯の哀公以後(六国春秋の時代)も元公・穆公・恭公・康公・景公・平公・緡公・頃公と続き、秦が周を滅ぼすに至る経緯(周は三十六王・八百六十七年)、秦の五世(昭王・孝文王・荘襄王・始皇・二世、あわせて四十九年)を記す。
- 最後に漢について、高祖(木徳を承けて火徳を称する。上元より十四万三千二十五歳)から著紀の在位年数を列挙する:高祖十二年、恵帝七年、高后八年、文帝二十三年、景帝十六年、武帝五十四年(太初暦の制定を含む)、昭帝十三年、宣帝二十五年、元帝十六年、成帝二十六年、哀帝六年、平帝(元始五年に宣帝の玄孫の嬰を後継の孺子とする)、王莽の居摂・簒位(新室、十四年)、更始帝(二年)、赤眉が擁立した劉盆子を経て、光武帝の中興(建武・中元、あわせて三十三年)に至るまでを記して志を結ぶ。