漢書卷二十二 禮樂志第二

禮樂の意義

  • 六経の教えはつまるところ一つであり、なかでも礼と楽の働きが最も急務である。身を治める者はしばらくでも礼を忘れれば粗暴・侮りが入り込み、国を治める者は一朝でも礼を失えば荒乱がすぐに及ぶ。人は天地陰陽の気を受け喜怒哀楽の情を持つが、天はその性を与えるだけで自ら節度をつけることはできない。聖人だけがこれに節度を与えることができ、天地を象って礼楽を制定し、神明に通じ人倫を立て、情性を正し万事を整えるものとした。
  • 人には男女の情・嫉妬の別があるため婚姻の礼を、長幼が交わる序があるため郷飲の礼を、死を哀しみ遠くを思う情があるため喪祭の礼を、上を尊ぶ心があるため朝覲の礼を、それぞれ制定した。哀しみには哭踊の節、楽しみには歌舞の容があり、正しい人はこれによって誠を発揮し、邪な人はこれによって過ちを防がれる。婚姻の礼が廃れれば夫婦の道が乱れて淫辟の罪が増え、郷飲の礼が廃れれば長幼の序が乱れて争いの獄が増え、喪祭の礼が廃れれば恩が薄れて祖先を忘れる者が増え、朝聘の礼が廃れれば君臣の位が失われ侵陵の兆しが起こる。孔子は「上を安んじ民を治めるのに礼に勝るものはなく、風俗を移すのに楽に勝るものはない」と述べた。礼は民心を節し、楽は民の声を和し、政はこれを行い、刑はこれを防ぐ。この四つが行き渡って乖くことがなければ王道は完備する。
  • 楽は内を治めて同を為し、礼は外を修めて異を為す。同なれば親しみ和し、異なれば畏敬する。親しみ和せば怨みなく、畏敬すれば争わない。揖譲して天下が治まるのは礼楽の働きである。両者は並び行われて一体をなす。畏敬の意は献酬・辞受・登降・跪拜に現れ、親和の情は詩歌・詠言・鐘石・管弦に発する。孔子は「礼と言い礼と言うが、玉帛のことを言うのではない。楽と言い楽と言うが、鐘鼓のことを言うのではない」と述べた(礼は人を節することを、楽は人を和することを本とし、玉帛・鐘鼓はその末に過ぎない、との意)。これが礼楽の本である。礼楽の情を知る者は「作る」ことができ、礼楽の文を識る者は「述べる」ことができる。作る者を聖といい、述べる者を明という。

漢初における礼楽制定の経緯

  • 王者は必ず前王の礼に基づき、時に応じて損益し、民心に即して次第に制作し、太平に至って大いに備わるものである。周は夏・殷の二代を観て礼文がとりわけ整い、「礼経三百、威儀三千」と称された。教化が行き渡り民は和睦し、災害も禍乱も起こらず、獄は四十余年空になったという。孔子はこれを「郁郁乎として文なるかな、吾は周に従わん」と称えた。
  • 周の衰えとともに諸侯は法度を越え、礼制を憎んで典籍を捨てた。秦の滅学に遭って礼楽は乱れ亡んだ。漢が興ると乱を撥め正に反すのに日も足りないほどであったが、叔孫通に命じて礼儀を制定させ、君臣の位を正させた。高祖はこれを喜び「私は今日初めて天子の貴さを知った」と述べ、通を奉常とし儀法を定めさせたが、未だ備わらぬまま通は世を去った。
  • 文帝の時、賈誼は「漢は秦の敗俗を承け礼義を廃し廉恥を捐てており、父兄を殺す者や廟器を盗む者すら現れているのに、大臣は簿書の期会に事足れりとしている」と論じ、移風易俗は俗吏にできることではなく、君臣の等・上下の序・六親の和睦(父・子・従父昆弟・従祖昆弟・曾祖昆弟・族昆弟の六親)を立てる制度こそ人が設けるべきものであり、作らねば立たず修めねば壊れると説いた。漢は興ってすでに二十余年、制度を定め礼楽を興すべきだと草稿を進めたが、絳侯・灌嬰ら大臣がこれを妨げ議は沙汰止みになった。
  • 武帝の即位後、英俊の士を用いて明堂を立て礼服を制定し太平を興そうとしたが、竇太后が黄老を好み儒術を悦ばなかったため事はまた廃れた。のち董仲舒は対策で、王者は天道に則り、陽(徳)を重んじ陰(刑)を軽んずべきこと、徳教を務め刑罰を省くべきことを説き、今の世が秦の乱を承けて法出でて姦生じ令下りて詐起こる有様を憂え、更化(政治の刷新)の必要を説いたが、時に武帝は四夷討伐に意を注ぎ、礼文の事に留意する暇がなかった。
  • 宣帝の時、琅邪の王吉が諫大夫として、真の名君が世に出ることの稀さと、俗吏が簿書断獄に汲々として太平の基を築けていないことを論じ、大臣と儒生を集めて旧礼を述べ王制を明らかにするよう願ったが、上は用いなかった。吉は病により去った。
  • 成帝の時、犍為郡の水辺で古磬十六枚が発見され、瑞祥とされた。劉向はこれを機に辟雍を興し庠序を設け礼楽を陳ね雅頌の声を盛んにし揖攘の容で天下を風化すべきだと説いた。礼を欠く弊に対しては「礼は人を養うことを本とする以上、多少の過差があっても、それは養うがゆえの過ちである」とし、刑罰の過ちが死傷に至るのに比べれば軽いと論じた。今の刑は皋陶の法ではないのに有司は随意に削り随意に筆すが、礼楽については「敢えてせず」というのは殺すことには敢えてして養うことには敢えてしないということだと批判した。教化は治の拠り所であり刑法はそれを助けるものに過ぎないのに、拠り所を廃して助けだけを立てるのは太平の道ではない、京師にすら悖逆の子孫が絶えないのは五常の道を習わないからだと述べた。成帝は劉向の言を公卿に議させたが、向は議の途中で病没した。丞相・大司空は辟廱を長安城南に営もうと奏請し場所まで定めたが、成帝が崩じて未完成のまま止み、群臣はこれを引いて「成」の諡を定めた。
  • 王莽が宰衡となると衆庶に誇示するため辟廱を興し、それによって帝位を簒奪し海内はこれに背いた。世祖(光武帝)が受命し中興して乱を撥め正に反し、京師を土中(洛陽)に改め定めた。即位三十年、四夷が服し百姓が家給し政教が清明になると、明堂・辟廱を営み、顕宗(明帝)は即位して自らその礼を行い、光武皇帝を明堂に宗祀し三老五更を辟廱に養った。威儀は盛美であったが、徳化がなお洽く流れないのは礼楽が未だ具わらず、群下に誦説する場がなく庠序も未だ設けられていないためであった。孔子の「山を築くのに未だ一簣を成さずして止まれば、それは自分が止めたのだ」との言葉のとおりである。
  • 叔孫通が撰した礼儀は律令と同じく理官(法官)に秘蔵されたまま法家にも伝わらず、漢の典章は眠ったまま著されず、語り継ぐ者もいなかった。通の没後、河間献王が礼楽の古事を採集し次第に増輯して五百余篇に至ったが、当時の学者はこれを昭らかにできず、士礼を推して天子の礼に及ぼす説も謬異が多く、君臣長幼交接の道はしだいに明らかでなくなった。

楽の本質論と古代楽の伝承

  • 楽は聖人の楽しむところであり、民心を善くし、人を感じさせること深く、風俗を移すことは容易である。それゆえ先王はその教えを著した。民には血気心知の性はあっても哀楽喜怒に定まりはなく、外物に感応して初めて心の働き(心術)が形になる。繊細で沈んだ音が起これば民は憂いを思い、広やかで和らいだ音が起これば民は安楽になり、荒々しく猛々しい音が起これば民は剛毅になり、廉直で誠実な音が起これば民は粛敬になり、寛裕で和順な音が起これば民は慈愛の心を持ち、放埓で邪な音が起これば民は淫乱に流れる。先王はこの乱れを恥じたため、雅頌の声を情性に基づかせ、度数で考え、礼儀で制し、生気の和に合わせ五常の行いを導き、陽の気は散らさず陰の気は滞らせず、剛の気は怒らせず柔の気は怯えさせず、この四つが体内で暢び外に発するようにした。これが先王が楽を立てた方法である。
  • 王者がまだ楽を作らない間は先王の楽で百姓を教化しその俗を悦楽させ、然る後に功徳を明らかにする新たな楽を作った。『易』に「先王は楽を作って徳を崇め、これを盛んに上帝に薦め祖考を配す」とある。昔、黄帝は咸池を、顓頊は六莖を、帝嚳は五英を、堯は大章を、舜は招(韶)を、禹は夏を、湯は濩を、武王は武を、周公は勺(酌)をそれぞれ作った。それぞれの名には由来があり、勺は先祖の道を汲むことを、武は武功で天下を定めたことを、濩は民を救ったことを、夏は堯舜二帝を大いに承けたことを、招は堯を継いだことを、大章は明らかにすることを、五英は英華の茂ることを、六莖は恩沢が根から茎に及ぶことを、咸池は皆備わることをそれぞれ意味する。夏より以後はその音楽の伝が聞こえなくなり、殷の頌はなお存するものがあり、周の詩は雅頌ともに整い、器用も張り陳ねられ周官にも定められた。師瞽以下典者は有道徳の者を選び朝夕業を習わせ国子を教えた。国子には九徳の歌・六詩・六舞・五声八音の和を学ばせた。舜が夔に「汝、楽を典り胄子を教えよ。直にして温、寛にして栗、剛にして虐なく、簡にして敖なからしめよ。詩は志を言い、歌は言を詠じ、声は詠に依り、律は声を和す。八音克く諧う」と命じたとおりである。
  • 諸侯を外に賞するにも、威儀は目を、音声は耳を、詩語は心を満たし、その音を聞けば徳が和し、その詩を省みれば志が正しくなり、その数を論ずれば法が立つ。これを郊廟に薦めれば鬼神が饗け、朝廷に作せば群臣が和し、学官に立てれば万民が協い、聞く者は心敬い神を悦ばせて風に従う。かくて海内あまねく上の徳を知り、その風を被り、光輝日に新たになり、上に遷り善に化してもその理由を知らず、万物は夭折せず天地は順って嘉応が降る。「鐘鼓鍠鍠、磬管鏘鏘、福を降すこと穰穰」(詩・執競)や「石を撃ち石を拊てば百獣率いて舞う」(書・舜典)の語のとおり、鳥獣すら感応するのに人はなおさら、鬼神はなおさらである。
  • しかし雅頌が興っても、なお衰乱の音(殷紂の余声)が残っていたため淫過凶嫚の声には禁を設けた。世が衰え民が散じ小人が君子を凌ぐと邪が正に勝つ。『書』序に「殷紂は先祖の楽を断棄し、淫声を作って正声を乱し婦人を悦ばせた」とあり、楽官・師瞽は楽器を抱いて奔散し、あるいは諸侯に、あるいは河海に入った(太師摯は斉へ、亜飯干は楚へ、三飯繚は蔡へ、四飯缺は秦へ、鼓の方叔は河へ、播鼗の武は漢へ、少師陽と撃磬の襄は海へ、というように)。
  • 楽は情性に本づき肌膚に浹み骨髄に臧まるもので、千載を経てもその遺風余烈は絶えない。春秋の時、陳の公子完が斉に奔ったが、陳は舜の後であり招(韶)楽がなお存していたため、孔子は斉で韶を聞き三月肉の味を知らなかったという。周道が欠け始めると怨刺の詩が起こり、王沢が竭きて詩が作られなくなり、王官はその業を失い雅頌は錯乱した。孔子はこれを論じ定め、「吾、衛より魯に反りて然る後に楽正しく、雅頌おのおのその所を得たり」と述べた。
  • 周室が大いに壊れると諸侯は恣に行い、両観を設け大路に乗り、陪臣の管仲・季氏の類は三帰・雍徹・八佾舞廷など、いずれも天子の礼を僭した。制度は遂に壊れ頽廃したまま復さなかった。桑間濮上・鄭衛宋趙の淫声が並び出て、内には疾を致し寿を損ない、外には政を乱し民を傷つけ、巧偽がこれを飾って富貴の耳目を惑わした。秦の穆公は戎に女楽を遺り由余は去り、斉人は魯に女楽を餽り孔子は去った。六国のうち魏の文侯は最も好古であったが、子夏に「寡人、古楽を聴けば眠くなり、鄭衛を聞けば倦むを知らず」と語り、子夏の弁を用いなかった。これより礼楽は喪われた。

漢代の宗廟音楽の制定

  • 漢が興ると楽家に制氏があり、雅楽の声律を世々太楽官に伝えたが、その鏗鎗(音の響き)を記すのみでその義を語ることはできなかった。
  • 高祖の時、叔孫通は秦の楽人によって宗廟楽を制定した。大祝が廟門で神を迎えるときは「嘉至」を奏し(古の降神の楽にあたる)、皇帝が廟門に入るときは「永至」を歩みの節として奏し(古の采薺・肆夏にあたる)、乾豆(供物)を薦めるときは登歌を奏した(管弦を用いず歌のみで、在位者に遍く聞かせる。古の清廟の歌にあたる)。登歌が終わると「休成」の楽を奏して神明の饗応を美め、皇帝が東廂で酒を召すときは「永安」の楽を奏して礼の成ったことを美めた。
  • また房中祠楽があり、高祖の唐山夫人が作った。周にも房中楽があり、秦では「寿人」と名づけられた。楽はその生ずる所を楽しみ礼は本を忘れないため、高祖は楚声を楽しんだので房中楽も楚声である。孝恵二年、楽府令夏侯寛に簫管を備えさせ「安世楽」と改名した。
  • 高祖廟では武徳・文始・五行の舞を、孝文廟では昭徳・文始・四時・五行の舞を、孝武廟では盛徳・文始・四時・五行の舞をそれぞれ奏した。武徳舞は高祖四年に作られ天下が武を用いて乱を除いたことを象る。文始舞はもと舜の招舞で、高祖六年に前代を襲わないことを示すため文始と改名した。五行舞はもと周の舞で、秦始皇二十六年に五行と改名した。四時舞は孝文が天下の安和を明示するために作った。楽は自ら作るものと、先王の楽に遵うものとがあることを示す。孝景は武徳舞を採って昭徳とし太宗廟を尊び、孝宣は昭徳舞を採って盛徳とし世宗廟を尊んだ。高祖六年にはまた昭容楽・礼容楽が作られ、昭容は武徳舞から、礼容は文始・五行舞から出るもので、多くは秦の旧事を継承したものである。
  • 高祖は天下平定後、沛に立ち寄り故人父老と楽しみ酔って歓哀のうちに「風起の詩(大風歌)」を作り、沛の童子百二十人にこれを習わせ歌わせた。孝恵の時、沛宮を原廟とし歌児に吹奏を習わせ常に百二十人を員とした。文帝・景帝の間、礼官はただ業を習うのみであった。
  • 武帝は郊祀の礼を定め、太一を甘泉に祠り(乾の位)、后土を汾陰の沢中(方丘)に祠った。そして楽府を初めて置き、夜に詩を採らせた(民謡を密かに集める意)。趙・代・秦・楚の謳を採り、李延年を協律都尉とし、司馬相如ら数十人に詩賦を作らせ律呂を論じ八音の調を合わせ、十九章の歌を作り、正月上辛に甘泉圜丘で用いた。童男女七十人に昏より夜通し歌わせ、明け方には流星のような神光が祠壇に集まったといい、天子は竹宮より望拝し、侍祠の百官数百人はみな粛然と感動した。

安世房中歌(十七章)

  • 高祖の唐山夫人作という房中祠楽で、のちに「安世楽」と改名された歌詞十七章。内容は宗廟における孝徳の顕彰、天子の徳が四方に及び子孫が福を保つことを祝う頌詩で、「大孝備矣」「七始華始」「我定歴数」「王侯秉徳」「海内有姦」「大海蕩蕩」「安其所」「豊草葽」「雷震震」「桂華」「美芳」「磑磑即即」「嘉薦芳矣」「皇皇鴻明」「浚則師徳」「孔容之常」「承帝明徳」の各章からなる(旧注では章数や区切りに異同があり、劉敞の分章に従って十七章とする)。各章は概ね、天子の孝徳が宗廟の神霊を安んじ、王侯・群臣がその徳に従い、恩沢が万民に及んで子孫が長く福を保つことを称える内容で、神を迎え饗し、送るまでの祭祀の進行に沿って詠まれている。

郊祀歌(十九章)

李延年らが定めた郊祀歌十九章。武帝の甘泉・后土・雍五畤などでの祭祀にあわせて作られたもので、各章の要旨は次のとおり。

  1. 練時日(一)――吉日を選び、香草と脂を焫いて四方の神を迎え、天門を開いて神霊の車駕(玄雲・飛龍・羽旄)が降臨する様、神女の舞と装いの美しさ、嘉觴を献ずる様を詠う。
  2. 帝臨(二)――后土(地の神)を祠る歌。四方の神が中壇の天神を承け、天下の安寧と文を興し武を偃せることを祝う。
  3. 青陽(三、鄒子楽)――春(青陽)を詠い、万物が根から萌え出で膏潤が行き渡ることを歌う。
  4. 朱明(四、鄒子楽)――夏(朱明)を詠い、万物が盛長し百神が祭祀に与ることを歌う。
  5. 西顥(五、鄒子楽)――秋(西顥)を詠い、収穫と四夷の帰服、姦偽の絶えることを歌う。
  6. 玄冥(六、鄒子楽)――冬(玄冥)を詠い、易乱除邪・兆民が本に反り礼を望むことを歌う。
  7. 惟泰元(七、建始元年に丞相匡衡の奏で改定)――天地の至尊(泰元)を祠り、四時・日月星辰・陰陽五行の運行、天子が皇天の徳を継ぎ承ける様を歌う。
  8. 天地(八、匡衡が更に改定)――日の出入りと人の寿命の短さを対比し、仙道(六龍に乗る)への憧れを詠う。
  9. 日出入(九)――太一が天馬を下したことを詠い、汗血馬(大宛馬)の神異な姿を称える。元狩三年、渥洼水中で天馬(後の馬)を得た際に作られた。
  10. 天馬(十)――西方より天馬が至り、九夷が服し、太初四年に大宛(宛)を誅してその馬を得たことを詠う。
  11. 天門(十一)――天門が開き衆神が並び駆けて饗を受ける様、神光が夜を照らし徳信が著れることを詠う。
  12. 景星(十二、元鼎五年、汾陰で鼎を得て作る)――斉房に瑞草(九茎連葉)が生じたこと、宝鼎の瑞祥を詠う。
  13. 斉房(十三、元封二年、甘泉の斉房に芝が生じて作る)――皇天后土を嘉壇に祀り、冀州から瑞福が兆すことを詠う。
  14. 后皇(十四)――神の来臨と車駕の盛んな様、甘露が降り慶雲が集まることを詠う。
  15. 華煜煜(十五)――五神が四方を包み、土地が広がり、璧玉の光華が福慶を招くことを詠う。
  16. 五神(十六)――隴首に朝し西垠を望み白麟を獲たことを詠う(元狩元年、雍に行幸し白麟を獲て作る)。匈奴を威服させ流離の民を安んずることも詠う。
  17. 朝隴首(十七、元狩元年、雍に行幸し白麟を獲て作る)――同じく白麟の瑞を詠う。
  18. 象載瑜(十八、太始三年、東海に行幸し赤雁を獲て作る)――瑞獣(象輿)・赤雁など各地の瑞祥が多く集まることを詠う。
  19. 赤蛟(十九)――赤蛟・黄華蓋の瑞象、神を礼して長寿を祈ることを詠う。

そのほか巡狩の際の福応の事は、郊廟の序に連ならないため本志には論じない。

河間献王の雅楽輯集とその後の議論

  • このころ河間献王は雅楽の才があり、礼楽なくして治道は成らないと考え、集めた雅楽を献上した。天子はこれを大楽官に下し常に習わせ、歳時に員数を備えさせたが常用はせず、常御・郊廟の楽もみな雅声ではなかった。それでも詩楽は後嗣に伝わり、なお祖述するところがあった。
  • 昔、殷周の雅頌は姜嫄・簡狄以来の始祖神話から成湯・文武・武丁・成王・康王・宣王の中興、伊尹・周公・召公・太公・申伯・召虎・仲山甫らの功徳を襃揚するものであった。しかし今の漢の郊廟詩歌には祖宗の事がなく、八音も調わず鐘律にも協わない上、掖庭の材人や上林の楽府はみな鄭声を朝廷に用いていた。成帝の時、謁者の常山王禹が代々河間の楽を伝え義を説くことができ、その弟子の宋曄らが上書してこれを言上した。大夫・博士の平当らに考試させたところ、平当らは「漢は秦の滅道の後を承け、先帝の聖徳により廃官を修め太学を立てたように、河間献王の輯めた雅楽も興し、公孫弘・董仲舒らも正雅と認めていたのに、大楽・春秋・郷射で学官に置かれても稀にしか講じられず、公卿大夫も鏗鎗を聞くのみでその意を暁らず、風諭の道が立たない。百余年行われてもなお徳化は成っていない。宋曄らの孤学を興し教化衰微の学を興廃するのは人にあり、雅楽に属させ絶学を継ぎ微を表すべきである」と論じ、河間献王が小国の藩臣でありながら好学修古で名を後世に残したことを引き、聖主の広大な資質をもってすればなおさらだと説いた。事は公卿に下されたが「久遠で分明にし難い」として復た議は寝んだ。
  • このころ鄭声はますます盛んで、黄門の名倡丙彊・景武らが世に富み顕れ、五侯(王鳳ら)・定陵(淳于長)・富平(張放)ら外戚の家は淫侈が度を過ぎ、人主と女楽を争うほどであった。哀帝は定陶王であったころからこれを憎み、また性来音楽を好まず、即位すると詔して「世俗が奢侈になり文巧が進んで鄭衛の声が興っている。奢侈は国を貧しくし、文巧は本を捨て末に趨る者を増やし、鄭衛の声は淫辟の風を流す。それでいて黎庶が敦朴であることや家給を求めるのは、源を濁しながら流れの清きを求めるようなものだ。孔子も『鄭声を放て、鄭声は淫なり』と言っている」と述べ、楽府官を罷め、郊祭楽および古兵法・武楽で経に載る非鄭衛の楽以外は条奏して他官に属させるよう命じた。
  • 丞相孔光・大司空何武は、郊祭楽人・南北郊祠奉仕の各種鼓員(大楽鼓員六人、嘉至鼓員十人、邯鄲鼓員二人、騎吹鼓員三人、江南鼓員二人、淮南鼓員四人、巴俞鼓員三十六人、歌鼓員二十四人、楚厳鼓員一人、梁皇鼓員四人、臨淮鼓員三十五人、兹邡鼓員三人など計十二員百二十八人)や、外郊祭員十三人、招給祠南郊六十七人、雅楽四人、夜誦五人、剛別柎二人、盛徳給事二人、調箎二人、聴工一人、鐘工・磬工・簫工各一人、僕射二人など、経に応ずるものはみな罷めず、竽工三人(一人罷む)、琴工五人(三人罷む)、柱工二人(一人罷む)、繩弦工六人(四人罷む)、鄭四会員六十二人(一人のみ雅楽に給し六十一人罷む)、張瑟員八人(七人罷む)、安世楽鼓員二十人(十九人罷む)、沛吹鼓員十二人・族歌鼓員二十七人・陳吹鼓員十三人・商楽鼓員十四人・東海鼓員十六人・長楽鼓員十三人・縵楽鼓員十三人(計八員百二十八人、前殿房中の楽で経法に応じない)、治竽員五人・楚鼓員六人・常従倡三十人・常従象人四人・詔随常従倡十六人・秦倡員二十九人・秦倡象人三人・詔随秦倡一人・雅大人員九人・楚四会十七人・巴四会十二人・銚四会十二人・斉四会十九人・蔡謳三人・斉謳六人・竽瑟鐘磬員五人(いずれも鄭声で罷むべし)、師学百四十二人(うち七十二人は大官の挏馬酒に給し残る七十人は罷むべし)を条奏した。総計八百二十九人のうち三百八十八人は罷めず大楽に属させ、四百四十一人は経法に応じずまた鄭衛の声のため罷めるべきとした。奏は聞き入れられたが、百姓は久しく浸み込んだ習俗を改めず、豪富の吏民は依然として湛沔(享楽)に耽り、王莽の代にいたって陵夷し壊れた。

結び

  • 今、海内は更始し民は本業に帰り戸口も年々増え、刑罰を平らかにし賢良を用いて家給し庶にして富めば、庠序礼楽の教化が必要となる。幸い前聖の遺した威儀の制があり、これを法象して補い備え、経紀を存し著すことができる。孔子は「殷は夏の礼に因り損益するところを知ることができ、周は殷の礼に因り損益するところを知ることができる。それを継ぐ者は百世の後でも知ることができる」と述べた。今、大漢は周を継いで久しく、大儀(礼楽の大典)が未だ立てられていない。これこそ賈誼・董仲舒・王吉・劉向らが発憤し嘆息した所以である。