漢書卷十一 哀帝紀第十一 哀帝

孝哀皇帝、諱は欣。元帝の庶孫、定陶恭王の子で母は丁姫(前26–前1年)。三歳で定陶王を嗣ぎ、成帝に嗣子がないため皇太子に立てられ即位。傅氏・丁氏の外戚を重んじ、董賢を寵愛して大司馬に取り立てるなど寵臣政治に傾き、在位六年で早世した。

年表(10件)

出自と生い立ち

  • 孝哀皇帝(諱は欣)は元帝の庶孫、定陶恭王の子。母は丁姫。三歳で定陶王を嗣ぐ。長じて文辞・法律を好んだ。元延四年、入朝の際に傅・相・中尉を悉く従えて来た(諸侯王の朝見では封国の二千石の官がすべて随行できる制による)。同時期に朝見した成帝の少弟中山孝王が傅のみを従えていたのを成帝が怪しみ問うと、定陶王は正しく理由を述べ、また詩を誦して意味を説明できたが、中山王は尚書を誦させても忘れる有様で、成帝はこれにより定陶王を有能とみなした。
  • 定陶王の祖母傅太后が朝見の際、成帝の寵姫趙昭儀・帝舅の票騎将軍曲陽侯王根に賄賂を贈り、昭儀・王根も成帝に子のないことから自らの長久の計として定陶王を推した。成帝も定陶王の材を美とし、元服を加えて帰した(時に十七歳)。
  • 翌年、執金吾任宏を大鴻臚代行とし定陶王を皇太子に立てるための使者とした。定陶王は謙譲の上表を奉ったが認められ、綏和二年三月成帝崩、四月丙午、太子が皇帝に即位、高廟に謁し、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊び大赦。太皇太后の詔で定陶恭王を恭皇と尊ぶ。五月丙戌、皇后傅氏を立てる。「春秋、母は子を以て貴し」の義により、定陶太后を恭皇太后、丁姫を恭皇后とし、それぞれ左右詹事・食邑を置く。傅父を崇祖侯、丁父を褒徳侯に追尊。舅の丁明を陽安侯、丁満を平周侯に封じ、丁満の父丁忠を平周懐侯に追諡。皇后の父傅晏を孔郷侯、皇太后の弟趙欽を新成侯に封ずる。六月、鄭声の淫乱を戒め楽府を廃す詔。曲陽侯王根・太僕安陽侯王舜・丞相孔光・大司空何武に増封。河間王良の喪礼が宗室の儀表であるとして増封。制節謹度・奢淫を防ぐことを説き、諸侯王・列侯・公主・吏二千石・豪富民の田宅・奴婢の限度を定める議、賈人の名田・仕官の禁、任子令・誹謗詆欺法の除去、掖庭宮人の三十歳以下の出嫁許可、老残酷虐な吏の退任など一連の詔。秋、曲陽侯王根・成都侯王況、罪により王根は就国、王況は免じられ庶人となり帰郷。

建平元年(前前6年)

  • 春正月、大赦。侍中騎都尉新成侯趙欽・成陽侯趙訢、罪により免じられ遼西に徙される。太皇太后の詔で外家王氏の田で塋域以外は貧民に給付。二月、聖王の治は賢を得ることを首とするとし、大司馬・列侯・将軍・中二千石・州牧守相に孝弟惇厚直言通政事の士を挙げさせる詔。三月、諸侯王・公主・列侯・丞相・将軍・中二千石・中都官郎吏に金銭帛を賜う。冬、中山孝王太后媛(馮奉世の女)・弟の宜郷侯馮参、罪により自殺。

建平二年(前前5年)

  • 春三月、大司空を廃し御史大夫を復す。夏四月、漢家の制は親親を推して尊尊を顕すとして、定陶恭皇の号を改め、恭皇太后を帝太太后(永信宮)、恭皇后を帝太后(中安宮)とし、恭皇廟を京師に立てる詔、大赦。州牧を廃し刺史を復す。六月庚申、帝太后丁氏崩。夫婦一体・附葬の礼を説く詔(季武子の故事等を引く)、恭皇の園に陵を起こし定陶に葬ることとし陳留・済陰の近郡から五万人を発し穿土させる。待詔夏賀良らが赤精子の讖を言い、漢が中衰し再受命すべきと説き、改元易号を進言、大赦し建平二年を太初元年・号を陳聖劉太平皇帝とし漏刻を百二十度とする詔。七月、渭城西北原上の永陵亭部を初陵とし郡国民の徙を行わない。八月、夏賀良らの改元易号・増漏刻の進言が過ちであったとして制書を蠲除する詔、賀良らは反道惑衆として誅に伏す。丞相朱博・御史大夫趙玄・孔郷侯傅晏、罪により朱博は自殺、趙玄は減死二等、傅晏は削封(詳細は博伝)。

建平三年(前前4年)

  • 春正月、広徳夷王の弟劉広漢を広平王に立てる。癸卯、帝太太后の居所桂宮正殿が火災。三月己酉、丞相平当薨。星孛が河鼓に現れる。夏六月、魯頃王の子郚郷侯劉閔を王に立てる。冬十一月壬子、甘泉泰畤・汾隂后土祠を復し南北郊を廃す。東平王雲・雲の后謁・安成恭侯夫人放、罪により雲は自殺、謁・放は棄市。

建平四年(前前3年)

  • 春、大旱。関東の民が西王母の籌を伝えて京師に至り集まり祭る騒動。二月、帝太太后の従弟侍中傅商を汝昌侯、太后同母弟の子侍中鄭業を陽信侯に封ずる。三月、侍中駙馬都尉董賢・光禄大夫息夫躬・南陽太守孫寵、東平王を告発した功で列侯に封ぜられる(詳細は董賢伝)。夏五月、中二千石以下六百石及び天下男子に爵を賜う。六月、帝太太后を皇太太后と尊ぶ。秋八月、恭皇園北門が火災。冬、将軍・中二千石に兵法に明るく大きな謀略のある者を挙げさせる。

元寿元年(前前2年)

  • 春正月辛丑朔、日食。不明不敏を憂う詔、隂陽不調・元元の困窮を憂い、将軍列侯中二千石に賢良方正能直言者を挙げさせ大赦。丁巳、皇太太后傅氏崩。三月、丞相王嘉、罪により下獄死。秋九月、大司馬票騎将軍丁明免じられる。孝元廟殿門の銅亀蛇の鋪首が鳴る異変。

元寿二年(前前1年)

  • 春正月、匈奴単于・烏孫大昆弥来朝、二月帰国、単于は意に満たなかった(詳細は匈奴伝)。夏四月壬辰晦、日食。五月、三公官を正し職掌を分かつ――大司馬衛将軍董賢を大司馬、丞相孔光を大司徒、御史大夫彭宣を大司空とし長平侯に封ずる。司直・司隷を正し司寇を新設する事、未確定。
  • 六月戊午、帝は未央宮に崩ず(二十歳で即位、在位六年、享年二十五または二十六)。秋九月壬寅、義陵に葬る。

史論

  • 賛(班固)にいう。孝哀は藩王であった時から太子の宮に入るまで文辞に博く敏く、幼くして令聞があった。孝成の世に禄が去り王室の権柄が外に移ったのを目の当たりにしたため、臨朝してはしばしば大臣を誅し、主の威を彊くして武帝・宣帝に法らんとした。生来声色を好まず、卞射・武戯を時に観覧した。即位すると痿痺(足の病)を患い、晩年にはいよいよ重くなり、国を饗うこと永くなかった――哀しいことである。