御製題宋版漢書
- 政務の合間に書物を閲するのを楽しみとし、天祿琳瑯(宮中蔵書の名品を集めた文淵閣の書庫)に収まる宋版の漢書を巻頭から読み通した、という趣旨の詩。
- この宋槧本は内府旧蔵で天祿琳瑯の中でも冠たるものとされ、四庫全書總目を校勘するに際して改めて閲したところ、その精妙さがいよいよ他に並ぶもののないことを感じた、という感想が添えられる。
- 伝来としては、もと呉地の蔵書家の手を経て趙魏國(趙孟頫、魏国公に封ぜられたことによる呼称)が得たのち王弇州(王世貞)に帰し、久しく内府に入った経緯が記される。趙孟頫の没後、陸家・顧家を転々として王世貞に帰し、趙・王いずれも巻頭に自らの肖像を描き、王には跋文もあるが、そこにはまだこの御製の言及は及んでいない、という注記が付く。
- 結びでは、旧い盃が新しい爵(酒器)に替わるように、佳い玉(宝物)は多いが、それを大白(大杯)に浮かべて飲み干せる者はいないと自らを謙遜する句で締めくくる。
御製讀漢書
- 父(高帝)は劉氏の天下を安んじようとしながら劉氏はなお安からず、子(惠帝)は呂氏を安んじようとしてかえって劉氏の基を損なった、高帝の当初の目算そのものが誤っていたのであり、平勃(陳平・周勃)の知力を尽くした働きも、その誤りをどう評価すべきか、という趣旨。
- 張良が四皓(商山四皓)を推挙して太子を安んじたことは「安劉」ではなくむしろ「害劉」であったとする杜牧の見解に賛同し、これはすでに何度も論じられてきたことなので繰り返さないとする。
- 張良の子・張辟疆が陳平に対して呂氏一族に兵権を握らせるよう進言したこと(安呂の計)を取り上げ、陳平は保身のためにその言に従った巧詐・患失の小人であったとし、これによって呂氏の専権が始まったとする。太后(呂后)が死に軍が左袒(劉氏支持)しなければ、天下はすでに呂氏のものになっていたはずで、陳平・周勃がいくら働いても劉氏を安んじることはできなかったであろうとする。
- しかし根本の原因は高帝自身にあるとする。高帝は恵帝が自分に似ていないことを知りながら、私愛にひかれて戚姫の子・如意を太子に立てようとした。如意はまだ幼く、自分に似ているかどうかも定かでないのに、戚姫への寵愛ゆえに事態を招いた。結果、戚姫は人彘(人豚)にされ、恵帝はそれを見て酒に溺れて自ら身を持ち崩し、高帝の他の子で殺された者もさらに三人に及んだ。呂雉の禍いは実は高帝自らが招いたものであり、陳平が諸呂の封建を請うたことはそれを助長したにすぎないとし、陳平を「巧詐患失の小人」と呼ぶのも当然だと結ぶ。
御製讀叔孫通傳
- 叔孫通は秦末に待詔(任官待ちの学者)であった頃、諂うような言葉で虎口(危難)を免れ、漢王(劉邦)が儒服を嫌うのを見て自ら短衣に着替えて付き従った経緯を述べる。
- 緜蕞(茅を結んで模擬の壇を作ること)によって朝儀を習わせ、百官が敬い畏れて次第どおりに觴(さかずき)を奉じて上寿するようになったことで、叔孫通は奉常(九卿の一)に任じられ、金五百斤を賜った。受けた金を諸生に分け与えて悋しまなかったため、諸生も彼に推服したとする。
- ある諸生が「叔孫通は聖人と言えるか」と問うたことに触れ、子輿(孟子)が楊墨を斥けた厳しさに比べれば、叔孫通のやり方はむしろ妾婦の徳に近いとも評しつつ、それでも賢いと認める。魯の二人の生(叔孫通の招きに応じなかった儒者)が困窮してもなお節を守り通したことを称える。
御製讀漢書汲黯傳
- 「踞厠(厠に踞して人と会う)」して衛青に対面した故事について、如淳は「厠」を「溷(便所)」、孟康は「厠」を「牀(寝台)の側」と解する各家の異説を紹介し、劉攽は孟康説に従うべきとしたことに、自分も同意する。
- 丞相公孫弘が宴見の際にしばしば冠をかぶらなかったことは礼を失した軽々しい振る舞いであるのに対し、汲黯が来ると武帝が冠をかぶらぬまま会おうとしなかった逸話を挙げ、武帝が汲黯をこれほど敬遠したのなら、なぜ重んじて用いなかったのかと疑問を呈する。
- 身を修め礼楽を正すには、下の者に対して冠をかぶらぬまま接してはならないという理屈で武帝の振る舞いを正当化する説(蘭臺の語、司馬遷の記述を誇張したもの)を批判し、史書を読むには道理を明らかにすることが肝要であり、誣(事実を曲げた記載)に陥りやすいことを戒める。
御製讀蘇武傳
- 蘇武が節を全うして辱められなかったことは称えるに値するが、雪を齧り旃(毛織物の敷物)を食んで生き延びたという逸話は事実とは考えにくいとし、司馬遷が奇を好み、班固もそれに倣ったのではないかとする。
- 正史はありのままの事実(実録)を貴ぶべきであり、事が信ずるに足り義が人を勧めるに足りればそれでよいとした上で、蘇武が節を守り君命を辱めなかったことは臣下の極みとして伝えるに足るとしつつ、匈奴が始めは飲食を絶ち後に食を給したという情理は理解できるが、雪を齧り旃を吞んで数日を凌いだというのは常に行いうることではなく、疑わしいと論じる。
- 「野鼠を掘り草の実を去りて食う」という一文についても、張晏は野鼠と草の実を併せて食べたと解し、師古は蘇林の説(野鼠が蔵えた草の実だけを食べた)を採ったが、劉攽は北方には食用になる野鼠の類が多いとしたことを取り上げる。作者は漠北(モンゴル)の実情(現地でオカトナ(鄂和托那)と呼ばれる野鼠、メケルタ(墨克爾他)と呼ばれる草の実)を引き、貧窮の者がこれを掘り出して食するが、必ず穴に少量を残し尽くさないようにするという実例を挙げ、劉攽説が実情に近いとし、蘇林・師古の記載がいずれも詳らかでなかったので併せて考証したとする。
御製讀蕭望之傳
- 蕭望之は東海の大儒で経学を修め身を正しく持し、当初は関を守る小吏として仕えるにとどまり出仕を望まなかったが、宣帝がその名を聞いて対策を召すと一年のうちに三たび昇進したことを述べる。
- その本志は朝廷にあり、平原刺史・馮翊太守を辞そうとしても意に任せなかったこと、要職を求めていないように見えても実際は信じがたいとする。
- 恭顯(宦官の弘恭・石顯)が政を専らにする害を「薫蕕相容れず」と評し、子の蕭伋が上書して父の冤罪を訴えたことがかえって讒言を呼び、無実の災いが及んで蕭望之は自ら薬を仰いで慷慨のうちに死んだと述べる。この一件は懦弱な者を励ますに足るが、(帝が)一再ならず気づかなかったことは渭陵(宣帝)が実に暗愚であったことを示す、と結ぶ。
御製讀史丹傳
- 史丹(諡・頃侯)が皇孫(後の成帝)を輔導した功を美とし、「燕啄」(燕が雛を啄む=小事に見えて後の大患となる意)の故事のように、後年の憂いをもたらしたことに触れる。
- 杜牧が四皓の輔立を評して「劉氏を安んじたのではなく劉氏を滅ぼしたのだ」と言ったのと同様の趣旨を、史丹の事跡にも重ねて論じている。
御製讀翟方進傳
- 翟方進は幼くして父を失い小史(下級の属吏)であったことを恥じ、母を伴い京師に遊学して経学を修め、名節をもって自らを持したという出自を述べる。
- 胡常に対して謙譲を尽くしたことで名声はいよいよ高まり、司隷校尉として官を弾劾・罷免したことで威風は人々に知れ渡った。
- のちに右丞相となり、漢の旧儀を援用して自らのために百官が起立すること、輿に乗ったまま前を通る者は下車して敬うことを求めたことを取り上げ、これは道理に照らして相応しくない振る舞いであったとする。薛宣がかつて属吏を戒めた例を引き、私心がないとは言えないとし、翟方進はその後果たして薛宣に代わって丞相となった。
- その身の処し方は清廉であったが、法を用いるに深刻で勝つことを好み、過ちを改めず、恨みを根に持ち続けたため禍根は長く尾を引いた。星変(天文の異変)を隠して奏上しなかったことが災いし、白馬を賜り上尊(美酒)を賜って自尽を命じられたときにはすでに悔いても遅かった。民間には彼を諷する「翟子威」の童謡があったこと、また鴻隙陂(水利工事)を強行してかえって禍いを招いたことにも触れる。
御製讀龔遂傳
- 龔遂が渤海の民に「剣を売って牛を買え、刀を売って犢(子牛)を買え」と説いたという千古に伝わる話を、三度読み返せばなお疑わしい点があるとして検討する。
- 剣や刀を売るなら誰かがそれを買わねばならず、刀剣を持つ習俗が一様であるなら耕作に励んでも果たして誰が買い取るのか、また農耕で富を成せるならなぜそれ以前に蓄えがなかったのか、遠方に売るというなら道は遠く食料を運ぶ手間がかかり、それは「隣国を以て壑(水はけ)と為す」(自国の困難を他国に押し付ける)のと同じで王政の道に反する、と疑問を連ねる。
- 穆王(周の穆王)の教えや「天子が謙牧(謙虚な統治)を喜ぶ」といった故事成句を引き合いに、これらの言辞が本当に検証に耐えるものかを問う。
- 龔遂(字は少卿)は政治に通暁しており、その治術はもとより日頃の言葉のうちに含まれていたはずで、後人が私淑してもったいぶって語る必要はないとし、司馬遷が奇を好み班固がその筆法を継いだ結果、こうした誇張が史書に少なくないことを示し、史籍を読むことの難しさを結びとする。
漢書敘例(顏師古序)
- 唐の正議大夫・行秘書少監・琅邪縣開國子であった顏師古が撰した序文で、皇太子(承乾)が儲君の重責を負いながら学問にも意を用い、漢の遺風を究めるべく漢書の研究を命じたことに始まる。
- 顏師古は班固(孟堅)の著述を宏贍(豊かで詳しい)と讃える一方、これまでの服虔・応劭以下諸家の音義は疎略で乱れが多く、蔡氏(蔡謨)の纂集もとりわけ齟齬が甚だしいとし、前代の不備を悵み後世の惑いを愍れんで、自ら幽仄の身(低い地位)にありながら力を尽くし、乖違を匡し鬱滞を揚(あきらか)にすることをもって後進を導きたいと志したと述べる。歳は「重光」(辛年)にあたり律は「大呂」(十二月)に及ぶ頃、すなわち貞観十五年(641年)十二月に書が成り、狂簡(粗雑)を恥じず上聞に及んだとする。
- 続けて漢書注釈の沿革を記す。漢書にはもと注解がなく、服虔・応劭らがそれぞれ別行の音義を著すにとどまった。西晋の典午年間(司馬氏の代)に晋灼が現れ、これらを一つにまとめて『漢書集註』十四卷を作り、当否を弁じたが、永嘉の乱により書は存したものの江左(東晋以南)には伝わらず、東晋から梁・陳に至るまで南方の学者はこれを見ることができなかった。
- 氏族の知れない「臣瓚」なる者が、晋初の頃、諸家の音義を総集めしたうえ自らの見解を末尾に付し、前人の説に反駁を加え、竹書(汲冢竹書)を好んで引き、自らその考証の精確さを誇り、全二十四卷・二帙にまとめた。これが後世に伝わる『集解音義』であるが、後人はこれを誤って応劭らの集解と呼び、王氏『七志』・阮氏『七錄』もそのまま誤って著録した。学者がその「瓚」の姓を「傅瓚」に当てようとしたこともあるが、明文がなく信じるに足らないとする。
- 蔡謨がこの臣瓚の書を丸ごと漢書本文に散り込ませたのが注本の始まりであるが、意は浅く功も乏しく、体裁を整えぬまま輯録したため錯乱が多く、本文を切り離して辞句を隔ててしまう妄りな穿鑿も生じ、無注の時代より却って読みにくくなったと批判する。蔡謨にも二、三箇所の誤りがあるが、後世の学者に大きな益をもたらさなかったとする。
- 漢書の旧文には古字が多く、伝写を重ねるにつれて解説も浅俗な俗字に改められてしまったため、顏師古は古本に基づいて正字を復元し、識別しにくい箇所には注釈を施したとする。古今の言葉・方俗の相違により、浅学の者が意で増損を加え、原型から乖離してしまった箇所も多く、これらをすべて削り旧に復したとする。
- 諸表は科条(分類)はあっても文字が繁多で前後の順序が乱れ、上下がかみ合わず昭穆(世代)も食い違っていたのを、文例を尋ね究めて整理し直し、区域(升目)を明確にして読みやすくしたとする。
- 礼楽の歌詩は当時の律呂(音律)に基づき句の長短に規則があるため通例では読み解けず、断章の意味も分からなくなっていたのを、その曲折に従って義理を解き明かし、読誦して耳に通じるようにしたとする。
- 注釈の方針として、旧注が正しいものはそのまま残し、簡略で意を尽くしていないものは敷衍して通じさせ、道理を外れた詭弁や誤りは正して惑いを除き、当を得ない泛論や煩雑なだけの異説は採らないとする。旧来解説のなかった箇所はすべて詳しく釈し、典籍や『爾雅』の類を広く調べて根拠のない臆説は述べないとする。六経の原典は残欠が多く、各家が引く経文が近代の訓義と異なる場合も、前賢を強いて論駁せず後説に曲従することもせず、それぞれ本文に即して意を明らかにしたとする。
- 漢書は陳勝・項羽の代から哀帝・平帝の代まで多年にわたり、記述の分量も大きいため、紀伝表志の間に食い違いが生じているのは筆削(推敲)が完結しなかったためで、伝授の過程で先後が錯雑したこともあるとし、これらを源まで遡って会通し釈明したとする。
- 難読の文字や仮借の音義は他巻を検する煩を避けるためその都度その場で反切(発音)を付し、常用の字で疑わしくないものには煩雑な注を加えなかったとする。
- 近代の史注が該博を競って雑説を多く引き、本文を攻撃し前人の紕繆をあげつらい自らの見識を誇るあまり、互いに矛盾しあう「矛盾の仇讐」のようになっていることを批判し、自らの注はあくまで旧書(漢書本文)を輔翼するものとし、岐路(余計な脇道)を閉ざして旧来の軌轍に従ったとする。
- 末尾に、諸家の注釈者は氏名は伝わるが爵里(官職・出身地)が分かりにくい者もあり、諸家の伝はもはや存しないため、以下に列記するとして次の二十三名を挙げる(漢代から後魏に至る)。
- 荀悅(字仲豫、潁川の人、後漢の秘書監。『漢紀』三十卷を撰し、その事跡はすべて漢書に基づく)
- 服虔(字子慎、滎陽の人、後漢の尚書侍郎・高平令・九江太守。もと名を重といい祗と改め、後に虔と定めた)
- 應劭(字仲瑗、一に仲援・仲遠とも、汝南南頓の人、後漢の蕭令・御史・営令・泰山太守)
- 伏儼(字景宏、琅邪の人)
- 劉德(北海の人)
- 鄭氏(名は不詳。晋灼『音義』序は名を知らずとするが、臣瓚『集解』は「鄭德」とする。師古は根拠がないとして晋灼に従い「鄭氏」とのみ称す)
- 李斐(出身の郡縣は不詳)
- 李奇(南陽の人)
- 鄧展(南陽の人、魏の建安中に奮威将軍となり高樂郷侯に封ぜられた)
- 文穎(字叔良、南陽の人、後漢末に荆州從事、魏の建安中に甘陵府丞となった)
- 張揖(字稚讓、清河の人、一に河間の人とも。魏の太和中に博士となり、司馬相如傳の注一卷を作った)
- 蘇林(字孝友、陳留外黄の人、魏の給事中・領秘書監・散騎常侍・永安衛尉・大中大夫、黄初中に博士に遷り安成亭侯に封ぜられた)
- 張晏(字子博、中山の人)
- 如淳(馮翊の人、魏の陳郡丞)
- 孟康(字公休、安平廣宗の人、魏の散騎侍郎・宏農太守・領典農校尉・勃海太守・給事中・散騎常侍・中書令を経て、のち監に転じ廣陵亭侯に封ぜられた)
- 項昭(出身の郡縣は不詳)
- 韋昭(字弘嗣、呉郡雲陽の人、呉朝の尚書郎・太史令・中書郎・博士祭酒・中書僕射、高陵亭侯に封ぜられた)
- 晉灼(河南の人、晋の尚書郎)
- 劉寶(字道眞、高平の人、晋の中書郎・河内太守・御史中丞・太子中庶子・吏部郎・安北將軍。皇太子に漢書を講じ、別に駮義の著がある)
- 臣瓚(姓氏・郡縣とも不詳。裴駰『史記』序は「姓氏を知らず」とし、韋稜『続訓』も未詳とし、劉孝標『類苑』は「于瓚」、酈道元『水経注』は「薛瓚」とする。姚察『訓纂』は庾翼の主簿・兵曹参軍を経て建威將軍となった「于瓚」の説を引くが、これは翼の部将で漢書の注解を著した記録はないとする。臣瓚が採った諸家音義は服虔・孟康以外はみな晋の乱で江左に伝わらなかったにもかかわらず、高紀の「瓚案茂陵書」、文紀の「案漢祿秩令」を引くことから、江を渡る前の晋中朝の人であろうと推測する。『穆天子傳』目録が「秘書校書郎中傅瓚」を挙げ、汲郡出土の古書を多く引くことから「傅瓚」ではないかとの説もあるが、いずれも明文を欠き確定しない)
- 郭璞(字景純、河東の人、晋の贈弘農太守。司馬相如傳の序および遊獵の詩賦のみに注した)
- 蔡謨(字道明、陳留考城の人、東晋の侍中・五兵尚書・太常・領秘書監・都督徐兗青三州諸軍事・領徐州刺史・左光祿大夫・開府儀同三司・領揚州牧・侍中・司徒〈不拝〉、贈侍中司空、諡は文穆公)
- 崔浩(字伯深、清河の人、後魏の侍中・特進・撫軍大将軍・左光祿大夫・司徒、東郡公に封ぜられた。荀悅『漢紀』の音義を撰した)
漢書敘例考證
- 臣召南の按語:「儲君體上哲之姿」の句について、顏師古は皇太子承乾の命を受けて漢書に注釈したため、序の冒頭に「儲君」と言い、書は貞観十五年(辛丑)に成ったので「歳在重光」というのだと考証する。
- 「茍會扃塗」の句について、監本・別本はいずれも誤って「局塗」に作るが正しくないとし、古本に基づいて改める。
- 「諸家注釋雖見名氏」以下の一段について、臣浩の按語として、監本ではこの段が前文に接続して書かれているが誤りであり、改めて行を提(あらた)めて書くべきだとする。
- 顧炎武『日知錄』を引き、敘例が姓氏を列記するくだりで鄧展・文穎の項に「魏建安中」とあるが、建安は後漢献帝の年号であって、政治の実権が曹氏にあったとしても「魏」と称するのは適切でないと指摘する。あわせて、文穎が「甘陵府丞」となったとする記述について、両漢の官制に「府丞」の名はなく、甘陵は安帝の代に郡名を改めたものであるから、続志にいう「太常屬官、諸陵園令各一人、丞及校長各一人」の例に照らせば「甘陵丞」とすべきで「甘陵府丞」とは称し得ないと考証する。
- 張揖の項「清河人一云河間人」について、監本では「河間」を誤って「阿間」に作るため今これを改めたとし、あわせて、師古が列記した諸家の名氏は荀悅から崔浩まで合計二十三人であるのに対し、監本に引く宋の景祐年間の余靖の上言では「先儒の注解した姓名を見得るもの三十五人」とあり、この「三十五」は「二十三」の伝写の誤りであろう、そうでなければ宋祁が「諸家名氏は既に顔師古敘例の下に付されている」と述べたことも理解できなくなる、とする。
漢書目錄
- 底本の漢書目錄は帝紀・表・志・列傳の巻次・篇名(および立伝された人物名)を列挙したもので、本文の各巻頭見出しと重複するため訳出しない。
- 目錄の末尾には、西漢十二帝(高祖元年乙未から王莽の地皇四年癸未まで、合計二百二十九年)にわたる範囲と、帝紀一十二(十三卷)・表八(十卷)・志十(十八卷)・列傳七十(七十九卷)、あわせて一百二十卷という巻数の統計が付されている。
漢書卷末按語(四庫館臣)
- 臣らが謹んで按ずるに、漢書一百二十卷は漢の班固が撰し、その妹の班昭がこれを続成した経緯は『後漢書』の本伝に詳しい。この書は歴代宝重に伝わり異論はなかったが、ただ『南史』劉之遴傳に、鄱陽の嗣王蕭範が「班固自撰の漢書真本」を得て東宮の皇太子(昭明太子)に献上し、太子は劉之遴に張纘・到溉・陸襄らと参校させたところ、劉之遴が数十件の異同を記録したとある、として今考えるにその内容はいずれも謬妄であるとし、逐一反駁する。
- 劉之遴は「古本には『永平十年五月二十日己酉、郎の班固上る』とあるが今本には上書の年月日がない」というが、班固は永平年間に詔を受けて漢書を修め、建初年間に至って完成させたものであり、また班昭傳には八表と天文志が未完のまま班固が卒し、和帝の詔により班昭が東觀の蔵書のもとでこれを続成したとある。つまりこの書の完成は二代の朝にまたがり一人の手によるものではなく、劉之遴が見たという古本が永平年間にすでに完成し上表されたとするのは、成書の年月を考えていない誤りだとする。
- 劉之遴は「古本の敘傳は『中篇』と号する」といい、また「今本の敘傳は班彪の事跡を載せるが、古本では班彪には別に伝がある」というが、古書の敘は巻末に置かれ、著者が自ら述作の意を述べるものを「敘」、祖先の事跡を遡って述べるものを「傳」と呼ぶのが後代の史家の通例であり、劉之遴の「中篇」という説は意味をなさない。また班彪は光武帝の代の人で茂才に挙げられ徐令となり、病により官を去った後もしばしば三公の召に応じた実質東漢の人物であるから、敘傳に附されているのであり、もし単独で一伝を立てて西漢の部に列するならば、漢書の断限(起高祖・終孝平王莽之誅)と矛盾すると指摘する。
- 劉之遴は「今本は紀・表・志・列傳が次第として噛み合っていないが、古本は相合って次第をなし総じて三十八卷にまとめられている」というが、班固自身が「紀・表・志・傳、あわせて凡そ百篇」(篇はすなわち卷)と述べており、三十八卷ではあり得ない。また「述紀十二・述表八・述志十・述列傳七十」とあることも各々別に次第を成す明証であるとする。さらに『隋書』經籍志には一百十五卷とあり今本は一百二十卷とあるが、いずれも巻帙が重すぎるために子卷に分けたもの(今本は帝紀を一子卷、表を二子卷、志を八子卷、傳を九子卷に分割)であり、これを併せて三十八卷とすればさらに巻帙が重くなり、竹簡帛書の時代には行い得なかったはずだとする。
- 劉之遴は「今本は外戚傳が西域傳の後にあるが、古本では帝紀の直下に置かれ、また今本の高五王・文三王・景十三王・武五子・宣元六王の各傳が諸傳中に散在しているのに対し古本ではこれらの諸王傳がすべて外戚傳の下・陳勝項羽傳の上にまとめられている」というが、紀・表・志・傳の次第は班固自らが定めたもので、劉之遴の言う通りであれば傳が紀の次に来て表志がかえって傳の後に置かれることになり不合理である。また諸王は各世代に分かれ、高五王傳第八・文三王傳第十七・景十三王傳第二十三・武五子傳第三十三・宣元六王傳第五十とそれぞれ別の篇次を持つのであって、一括して「諸王傳」とする理由がない。さらに漢書は『史記』の項羽本紀・陳勝世家を初めて列傳に改めた書であるから、当然列傳の首に置かれるべきで、諸王傳の後に移されるはずがない。外戚傳第六十七・元后傳第六十八・王莽傳第六十九と続くのは、王莽の権勢が元后に由来することを示す史家の深意によるものであり、外戚傳を帝紀の直後に移せば、この史法の趣旨が失われるとする。
- 劉之遴が引く古本の「述」(敘傳の賛)には「淮陰毅毅、伏劍周章、邦の傑子、実にこれ彭・英、化して侯王と為る、雲起龍驤」とあるというが、今本を収める『文選』の漢書述贊には張晏の注があり、その文言(「信惟餓隷、布実黥徒、越亦狗盗、芮尹江湖、雲起龍驤、化為侯王」)は今本と一致する。劉之遴の伝によれば献上先は昭明太子であるから、昭明太子自身が今本と同じものを知っていたことになり、劉之遴のいう「古本」は信ずるに足らないとする。
- 漢代に張霸が偽経を作った例に始まり、梁代にも漢書について偽の「古本」が作られたことがあったが、いずれも考証すればたちまち破綻が露見する。顔師古の注本は冒頭に指例六條を掲げ諸家の説を歴述しているが劉之遴の説には触れておらず、これは師古がすでにその偽であることを見抜いていたためであろうとする。李延壽(『南史』の撰者)が事の顛末を吟味せずそのまま史書に載せたのは、奇を愛し博識を誇るあまり裁断を欠いたものと評する。
- 班固には「受金の謗」(賄賂を受けて史を書いたとの中傷)があり劉知幾『史通』もなおこれを述べているが、『文心雕龍』史傳篇は「賄を徴し筆を鬻ぐの愆(あやまち)」を明確に否定しており、事実無根であるとする。また「父の書を竊據した」との謗もあるが、韋賢傳・翟方進傳・元后傳の三傳にいずれも「司徒掾班彪曰く」とあり、顔師古は韋賢傳の注で「漢書の諸賛はすべて班固の作であるが、叔皮(班彪の字)の先論があるものは固自身が明示して後人に示した」と述べているのを見れば、班固が父の名を竊み隠したという謗も事実ではないとする。
- 顔師古の注は条理精密で実に独創的だが、唐人には従わなかった者も多く、『緗覺寮雜記』は師古が「魁梧」「悟」「票姚」をいずれも去声に読むと注したのに対し、杜甫はこれらを平声に用い、楊巨源の詩「請問漢家誰第一、麒麟閣上識酇侯」も「酇」を「贊」と読む師古の説に従っていないことを挙げ、これは「貴遠賤近」(古を貴び今を賤しむ)という古来の風潮によるものであろうとする。それでも顔師古の疏通・證明の功は、なお班固の功臣と呼ぶにふさわしく、一、二字の出入りをもってその大体を損なうものではないと結ぶ。
- 乾隆四十九年(1784年)六月、恭しく校して上る。
- 總纂官 (臣)紀昀・(臣)陸錫純・(臣)孫士毅
- 總校官 (臣)陸費墀