前漢演義第一百回 王莽は国権を奪い皇帝を弑し、元后は御璽を投げ漢室は滅びる (竊國權王莽弒帝 投御璽元后覆宗)
平帝の大婚と九錫
- 元始四年、平帝(十三歳)は王莽の娘を皇后に迎えた。群臣は王莽を「宰衡」に推挙し上公の位を与えようとしたが、王莽は繰り返し固辞する芝居を演じつつ、実際には賄賂や恩恵を配って人心を掌握した。
- 太皇太后の遊覧に付き添い歓心を買うなど、王莽はあらゆる手段で太皇太后の信頼を深めた。
- 明堂・辟雍・霊台の造営、学舎の建設、博士員の増員など周公の故事に倣った施策を進め、九錫(衣服・車馬・弓矢・斧鉞・秬鬯・命圭・朱戸・納陛・虎賁)を受けるに至った。東西の異民族からも貢物を集めさせ、辺境の西海郡設置など強引な政策も行われた。
符瑞の濫造と反対者の弾圧
- 各地の太守に符瑞を上奏させ、従わない者(班稚、公孫閎)は処罰されかけた(班稚は太皇太后の temper で助命)。
- 王莽は「市に二価なく、獄訟なく、盗賊なく、遺失物を拾わぬ」等の理想政治を粉飾する詔を発するなど、実態を伴わない徳政を演出した。
丁傅二后の墓の暴掘
- 王莽は丁太后・傅太后の墓を暴き、璽綬を取り上げ格を下げて改葬することを太皇太后に強要した。発掘時に土砂崩れや火災という怪異が起こったが、王莽はこれを二后の生前の驕慢の報いだと言い立て、墓に荊棘を植えて後世への戒めとした。
- これに関与した太師馬宮は不安を覚えて辞職を願い出て許された。
平帝の毒殺
- 成長した平帝(十四歳)は、母衛后との面会を禁じられ外戚を粛清されたことに不満を募らせていた。王莽はこれを察知し、先手を打って臘日の椒酒に毒を盛った。
- 平帝は服毒後まもなく苦しみ出し、数日後に崩御(在位五年、十四歳)。王莽は自らが身代わりになりたいと祈る祝文を金縢に納めるなど、周公を模した芝居を打った。
孺子嬰の擁立と居摂
- 太皇太后は後継を議したが、王莽は年長の王を退け、宣帝の玄孫の中で最も幼い嬰(二歳)を選んで擁立した。
- 「安漢公が皇帝になる」と記した偽の丹書などの捏造符瑞が相次ぎ、太皇太后は当初これを一蹴したが、王舜らに押し切られ、やむなく王莽を「摂皇帝」として居摂させる詔を発した。
- 王莽は天子の礼装・儀礼を用い、居摂元年と改元した。
反乱の頻発とその鎮圧
- 安衆侯劉崇が挙兵したが衆寡敵せず敗死。
- 東郡太守翟義が甥の陳豊、劉信らと語らい、劉信を天子に推戴して大規模な反乱(十余万)を起こしたが、王莽方の七将軍に鎮圧され、翟義は磔刑となった。同時期に趙朋・霍鴻らの反乱も鎮定された。
- 王莽はこれらの勝利を機にますます専横を強め、「摂皇帝」から「臣」の字を除くなど権威を高めていった。
簒奪の完成
- 各地から「新井」「石牛」「丹文石」など捏造の祥瑞が相次いで奏上され、王莽はこれを利用して「居摂」から「初始」への改元を宣言した。
- 期門郎張充らの暗殺計画は事前に発覚し失敗。梓潼の哀章は偽の銅匱(金匱図・策書)を高祖廟に納め、王莽と佐命の臣十一名の名を記した文書を仕込んだ。
- 王莽はこれを口実に、初始元年十二月朔、群臣の前で正式に皇帝の座に登り、国号を「新」と定め、始建国元年と改元した。
太皇太后の憤りと伝国璽
- 王莽は伝国璽を求めて王舜を太皇太后のもとへ遣わした。太皇太后は王氏一族の恩知らずぶりを激しく罵り、璽を地面に投げつけて一角を欠けさせた(のちに金で補修)。
- 平帝の后(王莽の娘)は定安太后、孺子嬰は定安公に落とされ、前漢は滅亡した(前漢十二代、二百十年)。
(詩二首:漢室の江山を一朝で奪われたこと、太皇太后の無策への皮肉、子嬰に始まり子嬰(孺子嬰)に終わった璽の因縁への感慨)
評語
- 孝元皇后(王政君)は傅太后のような驕慢さも趙氏姉妹のような淫蕩さもなく、母后としては賢明な部類に入るとしながらも、王莽を溺愛し実権を委ねたことが漢滅亡の直接の原因になったと総括する。
- 王莽は太皇太后の御しやすさにつけこみ、平帝弑逆、孺子嬰擁立、摂皇帝・仮皇帝の僭称に至るまで、ことごとくその隙をついたと指摘。
- 「婦人の当国は暫くすれば危うく、久しければ亡ぶ」とし、太皇太后が八十余歳まで在世し漢の四代にわたって君臨しながら早く退かなかったことが、漢の滅亡を招いたと結論づけている。