前漢演義第九十九回 白雉を献じて主君を欺き功を誇り、凶兆に驚き子を殺し冤獄を構える (獻白雉罔上居功 驚赤血殺兒構獄)
中山王箕子の擁立と四太后の貶黜
- 王莽は太皇太后と諮り、中山王箕子(哀帝の従弟)を車騎将軍王舜に迎えさせ、後嗣とした。
- 実権を握った王莽は、皇太后趙氏(飛燕)を孝成皇后に、皇后傅氏を桂宮へ徙すなど次々に貶め、さらに傅太后を定陶共王母に、丁太后を丁姫に格下げした。丁傅両家の子弟はみな免官・帰郷させられた。のちに傅太后・趙皇后は庶人に落とされ、二人とも自尽した。
- 語り手は、趙太后の淫悪には応報の理があるものの、丁姫や傅皇后には格別の落ち度がなく、王莽が漢の臣でありながら母后を勝手に貶めたことを筋違いと批判している。
王莽の権力固め
- 王莽は孔光を尊崇する体裁を取りつつ実際は利用し、女婿の甄邯を通じて政敵(何武・公孫禄・董宏の子武・張由・史立ら)を次々弾劾・処罰した。
- 王莽に批判的な叔父の紅陽侯王立も、孔光を通じて封国へ追放。王舜・王邑・甄邯・甄豊・平晏・劉歆・孫建らを腹心として周囲を固めた。
- 大司空彭宣・傅喜らは王莽の専横を見て自ら退官を願い出て許された。
平帝の即位と白雉の献上
- 中山王箕子が即位して平帝となる(九歳)。太皇太后が臨朝し、実権は王莽に集中した。
- 王莽は益州の官吏に命じて塞外の異民族に「越裳氏」を騙らせ、周公の故事に倣って白雉を献上させた。群臣はこれを口実に王莽を「安漢公」に推挙し、王莽は形だけ固辞したのち受爵した(表向きは孔光らに功を譲ろうとする芝居を演じた)。
- 王莽は東平王・中山王の祭祀を復活させたり、宣帝の耳孫を封侯したり、高齢者への扶助を厚くするなど恩恵策を次々打ち出し、世間の称賛を集めた。同時に太皇太后には些事に関与しないよう仕向け、実権をいよいよ独占した。
衛姫の処遇と申屠剛の諫言
- 平帝の生母衛姫は、丁傅の外戚専横の教訓から入京を許されず中山に留め置かれた。扶風功曹申屠剛は母子分離の不孝を諫めたが、王莽の忌避に触れ、太皇太后の名で放逐された。
祥瑞捏造と孫宝の直言
- 黄支国の犀牛献上、越嶲郡の黄龍出現などが「安漢公の徳」として喧伝されたが、大司農孫宝は「周公・召公でさえ意見の相違があったのに、皆が異口同音に称賛するのはおかしい」と異を唱えた。のちに讒言により孫宝は免官された。
- 大司空王崇は群小との連携を嫌って辞職。龔勝・邴漢ら清廉な官も次々辞任した。
- 大旱・飛蝗の際、王莽は自ら質素倹約を演じて災害対策を主導し、これも「安漢公の徳」として称えられた。
須卜居次の来朝と王莽の娘の立后
- 匈奴に嫁いだ王昭君の娘(須卜居次)を招き太皇太后に謁見させ、これも王莽の徳と喧伝された。
- 平帝の后選びに際し、王莽は自ら「わが娘は不徳ゆえ除外を」と申し出て太皇太后に王氏の女子全体を選から外させたが、これは実は自分の娘を確実に立后させるための策略で、群臣が「安漢公の娘こそ」と推挙するよう仕向けたものだった。結局王莽の娘が皇后に選ばれ、莫大な聘礼が定められた。
呂寛事件と一族粛清
- 王莽の長男王宇は、平帝生母衛姫の処遇を巡り父に不満を持ち、師の呉章・妻兄の呂寛と謀り、夜に王莽邸の門に血を撒いて凶兆を装い、父に迷信的な恐れを起こさせて衛后を迎え入れさせようとした。
- しかし呂寛は現行犯で発覚し、王宇の関与が露見。王莽は情け容赦なく王宇を投獄・自殺させ、妊娠中の妻呂焉も連座(処刑は延期)、師の呉章も磔刑に処した。
- 呉章の弟子雲敞だけは師の遺骸を引き取り丁重に葬ったことで評判を得た。
- 太皇太后は王莽の「大義滅親」を称える詔を下したが、これがかえって王莽の残忍さを増長させ、衛氏一族はほぼ皆殺しにされ(生母衛后のみ存命)、元帝の娘・敬武公主や、王莽と不仲だった王立・王仁・王安ら親族、さらに何武・鮑宣ら旧臣までもが衛氏との内通を口実に次々処刑された。
- 北海の隠士逢萌は「三綱すでに絶えた」と述べて冠を脱ぎ捨て、家族を連れて遼東へ逃れた。
(詩:門前に血を撒いた企みは筋違いであったが、その動機は家を守ろうとするものだった、しかし無関係な親族まで殺し尽くしたことへの憐憫、との趣旨)
評語
- 本回は王莽の陰険さを描くもので、即位後まもなく四太后を廃した振る舞いに人臣の義がないことを示す。
- 白雉・黄龍・犀牛など瑞祥はすべて作為であり、実質を伴わないものと批判。
- 呂寛事件による実子・弟までの粛清は人情に反するとし、漢の簒奪はひとえに孝元太后(王政君)一人の甘さに起因すると結論づけている。