前漢演義第九十八回 賢相は投獄され血を吐いて死に、寵臣は失脚し妻とともに殺される (良相遭囚嘔血致斃 倖臣失勢與婦並戕)

鮑宣と桓少君

  • 諫大夫鮑宣は渤海の人。若くして師の桓氏の娘・桓少君を妻に迎えたが、嫁入り道具の豪華さを固辞し、少君は質素な身なりに改めて夫とともに帰郷、賢婦として評判となった。
  • 鮑宣は大司馬王商・大司空何武の推薦で議郎・諫大夫となり、直言をもって知られた。

息夫躬の失脚と横死

  • 息夫躬は根拠なき献策(大将軍出兵・郡守処刑による威嚇)を進言していたが、日食など災異が続く中、丞相王嘉が董賢を弾劾し、皇太太后傅氏も病没した。
  • 民間で「西王母」を祀る集団的騒動が起き、世間ではこれを太皇太后王氏に擬えていたが、実際には傅太后の死を予兆したものとされた。
  • 哀帝は孔光を呼び戻し、董賢も日食の責を傅氏へ転嫁したため、傅晏は罷免。息夫躬・孫寵も丞相王嘉らの弾劾で流罪となった。
  • 流刑地で盗賊を恐れた息夫躬は、賈惠に教わった呪術めいた厄除けを行っていたが、これを朝廷への呪詛と密告され、獄中の尋問中に血を吐いて悶死した。母も同罪に問われ処刑、妻子は流罪となった。のちに孫寵らも東平の冤獄を追及され誅殺された。

王嘉の死

  • 鮑宣は何武・師丹・彭宣・傅喜の復権と董賢の帰国を求めたが、哀帝は逆に董賢へ加増しようとした。丞相王嘉はこれに反対する上奏で哀帝の不興を買った。
  • 孔光は自らの相位を望み、王嘉を「罔上不道」と弾劾させ、哀帝も同意して王嘉を廷尉の獄に送った。王嘉は自裁を勧められても拒み、正々堂々と獄に赴くことを選んだ。
  • 獄中で「孔光・何武こそ賢者、董賢父子こそ不肖」と述べ、自らを罪あるものとしつつも意志を曲げなかった。二十余日の獄中生活の末、吐血して落命した。

鮑宣の受難と孔光の丞相就任

  • 王嘉の死後、孔光が丞相、何武が前将軍、彭宣が御史大夫となった。
  • 鮑宣は司隸校尉として孔光の従者の非違を咎めたことから、逆に孔光に恨まれ「大不敬」の罪で投獄された。太学の学生千余人が幡を掲げて救援を求め、孔光は表向き応じるふりをしたが実際には見捨てた。結局鮑宣は死罪を免れたが髠鉗の刑を受け上党へ流された。

董賢の大司馬就任と栄華の絶頂

  • 哀帝は董賢を大司馬に任じた(時に二十二歳)。策文には堯舜の禅譲を思わせる文言が用いられ、世間を驚かせた。
  • 孔光は自邸を訪れた董賢に対し卑屈なまでの礼を尽くし、哀帝はこれを喜んだ。
  • 董賢の父は蕭望之の孫の家との縁組を望んだが、策文の異例さを理由に婉曲に断られた。宴席で哀帝が「堯舜に倣い禅譲したい」と戯れに口にした際、中常侍王閎がこれを諫めて退けられかけたが、太皇太后のとりなしで復職し、さらに上書して董賢重用の不当を訴えた。
  • 匈奴単於や烏孫の使者が来朝した際、哀帝は若い董賢を「大賢」と紹介し、単於も祝賀するなど、董賢の栄華は絶頂に達した。

哀帝の崩御と董賢の末路

  • 董賢邸の門が原因不明に崩れる怪異が起きた後、丞相を大司徒、御史大夫を大司空とする官制改革があり、彭宣が大司空となった。
  • まもなく哀帝は病に倒れ、元寿二年六月、二十六歳で崩御(在位六年)。
  • 太皇太后王氏が璽綬を回収し、喪の取り仕切りに慣れた王莽を呼び戻した。王莽は董賢を「無功無徳」と弾劾させ、印綬を奪い罷免。董賢は絶望し妻とともに自尽した。
  • 王莽は董賢の急な埋葬を怪しんで検屍を命じ、朱漆の棺など僭越な葬儀を咎めて遺体を辱め、一族を合浦へ流し、家財を没収した(換算銭四千三万万緡余)。
  • 董賢に恩を受けていた属吏朱詡が改葬を申し出て自ら罪を認めたところ、王莽はこれを口実に朱詡を殺害した。
  • 孔光ら百官は王莽を大司馬に推挙し、何武・公孫祿の反対も及ばず、太皇太后は王莽を大司馬・領尚書事に任じた。

(詩:寵臣が死に大奸が代わって台頭し、漢室の命運が衰えていく、婦人の見識の浅さが狼を家に引き入れた、との趣旨)

評語

  • 王嘉は正義を守った良相だが、孔光を賢者と誤認した点で人を見る目に欠けていたと評す。孔光の陰険さは董賢父子以上であり、王嘉はその奸計に陥れられながらも孔光を称賛したまま死んだ。
  • 鮑宣も孔光に排斥されながら、董賢には節を屈しなかったことを評価しつつ、董賢個人には誅されるべき罪はあったが、それを断じたのが王莽であったことを惜しんでいる。
  • 孔光の追従と王莽の専横が相次いだことが漢の滅亡を早めたとする。