前漢演義第九十七回 朱博は権勢に阿るも身を滅ぼし、董賢は一族揃って寵愛を得る (莽朱博附勢反亡身 美董賢闔家同邀寵)

怪音の凶兆と朱博の増長

  • 殿上の怪音について、待詔李尋は「鼓妖」であり丞相を退けるべき兆しだと説き、揚雄も朱博の起用の危うさを進言したが、哀帝は祖母傅太后の意向もあり取り合わなかった。
  • 朱博は傅氏への感謝から、共皇太后・共皇后を「帝太太后」「帝太后」に格上げし「定陶」の字を除くよう働きかけ、哀帝はこれを許した。宮中には四人の太后が並立する異常事態となった。傅太后は太皇太后王政君を呼び捨てにするほど驕慢になったが、王政君は穏やかに受け流した。
  • 朱博・趙玄はさらに旧臣董宏の封爵回復を求める一方、これに反対していた王莽・師丹の処罰を求め、哀帝はこれを認め師丹を庶人に落とし王莽を封国へ送った。

夏賀良の改元騒動

  • 待詔夏賀良は甘忠可の遺書を根拠に「漢の暦運は衰えたので改元して受命を新たにすべき」と説き、哀帝は一時これに惑わされ「太初」と改元し「陳聖劉太平皇帝」と自称した。
  • しかし丁太后の急死などが重なり、哀帝は夏賀良の素性を調べさせ、その説が根拠のない妖言であると知って改元を取り消し、夏賀良を死罪、これを推薦した解光・李尋を流罪とした。

傅喜・何武の失脚と朱博の自裁

  • 傅太后は従弟でありながら阿らない傅喜を恨み、傅晏を通じて丞相朱博に傅喜と何武の弾劾を命じた。朱博は御史大夫趙玄を脅して連名させ、二人を庶人に落とす奏疏を出した。
  • しかし密かな取り調べで、趙玄が傅晏・朱博の強要で連名したことが露見。哀帝は趙玄を減刑、傅晏の封邑を削り、朱博は掖庭獄に召喚される直前に自ら鴆酒を仰いで自尽した。かつての怪音は予兆であったとされる。

平当・王嘉の丞相就任と東平王の冤獄

  • 御史大夫を経て丞相となった平当は治水に見識があり、河川対策の三策(賈譲の献策)を採用して民の負担を軽減したが、まもなく病没した。
  • 後任の王嘉が丞相となる中、東平王劉雲の宮中で怪異(土の隆起、大石の移動)が起き、劉雲夫妻が石に祈祷したことが発端となり、立身を狙う息夫躬・孫寵が「東平王が呪詛により帝位を狙っている」と密告した。
  • 厳しい取り調べの末、東平后謁・王舅伍弘らが処刑され、劉雲は庶人に落とされ房陵へ流された後に自尽した。廷尉梁相ら審理の慎重を求めた者はかえって罷免された。密告者の息夫躬・孫寵は恩賞を受けた。

董賢の寵愛

  • この冤獄に乗じ、哀帝は寵臣董賢にも功があったことにして封侯しようとした。董賢は元は太子舎人で、その美貌が哀帝の目に留まり急速に昇進、駙馬都尉侍中となった。
  • 哀帝が昼寝の際、自分の袖の下で眠る董賢を起こすまいと袖を切った故事(断袖の由来)が語られる。董賢は妻子がありながら宮中に留まり、哀帝に妹をも差し出して昭儀とし、妻とともに交代で夜伽をするに至った。
  • 哀帝は董賢の父を少府に、妻の父を将作大匠に、妻の弟を執金吾にするなど一族を厚遇し、壮麗な邸宅と自らの陵墓の隣に董賢の墓所まで用意させた。
  • 尚書僕射鄭崇は、無功の傅商への封侯に抗議し、また董賢への寵愛過剰を諫めたが、趙昌の讒言により投獄され獄死した。司隸孫寶も鄭崇を弁護して免官となった。
  • 東平の冤獄を口実に、董賢・息夫躬・孫寵はそろって関内侯に封じられた。諫大夫鮑宣は佞臣の排除と賢臣(傅喜・何武・師丹・孔光・彭宣)の登用を訴えたが、哀帝はこれを黙殺した。

(詩:正邪が混在し、君主が惑うことで民の怨みが起こり、漢の火徳=国運が衰えていくとの趣旨)

評語

  • 朱博はかつて義俠に厚かったが、晩節を汚し傅氏に阿って何武・傅喜を弾劾し、結局は自ら誣告の罪に落ちて死んだ。富貴が人を誤らせる例として批判。
  • 東平の冤獄は中山の馮氏事件に劣らぬ悲劇であり、息夫躬・孫寵は張由・史立と同類とされる。
  • 哀帝が男色の寵臣董賢を偽りの功で厚遇したことは、歴代の佞幸(籍孺・閎孺・鄧通・韓嫣・張放)の系譜に連なるが、妻妹まで差し出させた点でさらに異常とし、その禍根は祖先(元帝以来の風潮)に発すると論じる。