前漢演義第九十回 陳湯は郅支単于を斬り奇功を立て、王昭君は匈奴に嫁ぎ恨みを残す (斬郅支陳湯立奇功 嫁匈奴王嬙留遺恨)

郅支単于の暴走

  • 韋玄成の死後、匡衡が丞相となったが石顕に迎合するばかりであった。石顕は自分の姉を拒んだ甘延寿を恨んでいた。
  • 郅支単于は堅昆に移り、漢が呼韓邪を助けたことを恨み漢使を殺害し、康居に招かれて西方に移った後、烏孫を攻め、康居王の娘を殺すなど暴虐を極め、都頼水のほとりに城を築いて自立し、西域諸国に貢納を強要していた。漢が使者を送って真意を問うと、郅支は帰順を装って時間を稼いだ。

甘延寿・陳湯の遠征

  • 西域都護の甘延寿と副校尉陳湯は、郅支の脅威を先んじて除くべきと考えた。陳湯は朝廷への上奏を待たず、延寿の病中に独断で数万の兵を集めて出撃を決行、延寿もやむなく従った。
  • 遠征軍は康居領内で郅支に敵対する貴人屠墨と結び、道案内を得て郅支の居城に迫った。偽りの交渉で時間を稼ぎつつ攻城の準備を整え、郅支軍を撃破。木城を焼き払い、内城を攻め落として郅支を討ち取り、閼氏・太子ら千五百人を殺し、首級を長安に送った。

論功をめぐる石顕・匡衡の妨害

  • 延寿と湯は独断出兵を自ら上奏していたが、功を挙げると石顕は不快感を示し、匡衡と結んで二人を「矯制」の罪で問おうとした。元帝は当初動揺したが、陳湯の弁明と劉向(旧名更生)の上奏により、延寿は義成侯、湯は関内侯にそれぞれ封じられた。
  • 石顕はその後も馮野王(馮昭儀の兄)の登用を陰謀で妨げ、また自らの不正な宮門開閉を先回りして訴え出て元帝の同情を引くなど、狡猾に権勢を保った。

王昭君の悲劇

  • 竟寧元年、呼韓邪単于が入朝し漢との婚姻を願い出た。元帝は後宮の絵姿から選んだ宮女を与えることにしたが、実際に対面すると絶世の美女・王嬙(王昭君)であったことに驚愕した。すでに単于に与えると決めた以上、面目のため取り消せず、昭君はそのまま単于へ嫁ぐこととなった。
  • 調べたところ、宮廷画家の毛延寿が賄賂を渡さなかった昭君の似姿をわざと醜く描いていたことが判明し、毛延寿は死罪となった。
  • 郎中侯応の進言で、辺境防備の撤廃という呼韓邪の申し出は退けられたが、昭君は単于に嫁ぎ「寧胡閼氏」と号し、一男をもうけた。呼韓邪の死後は胡俗に従い、単于の跡を継いだ長子・雕陶莫皋の妻となり、さらに二女をもうけて塞外で没した。その墓は「青冢」と呼ばれ伝説となったが、琵琶を奏でながら出塞したとか服毒自殺したとかの俗説は史実に基づかない作り話であるとする。

評語

郅支単于による漢使殺害への報復は当然であるはずが、元帝は自ら討伐を命じることができず、副将である陳湯が独断で決行して大功を挙げたことを称える。経学者を任じる匡衡が権閹に媚びて功臣を妬んだことを厳しく批判する。呼韓邪の再度の入朝を機に和親策を続けたことについては、匈奴がすでに衰えていた以上不要であったとし、絶世の美女を夷狄に嫁がせて顧みなかった元帝の態度を「庸弱」と断じ、杜甫の詩句「一去紫台連朔漠、独留青冢向黄昏」を引いて昭君への同情を述べる。