前漢演義第八十八回 宦官を寵愛し蕭望之は無念の死を遂げ、讒言に惑い周堪は再び左遷される (寵閹豎屈死蕭望之 惑讒言再貶周少傅)

宣帝の崩御と元帝の即位

  • 黄龍元年冬、宣帝は病に伏し、史高・蕭望之・周堪に後事を託して崩御した。在位二十五年、宣帝は名実を厳格に照合し賞罰を明確にした名君だったが、外戚を重んじ名臣を殺し宦官を用いた弊も残した。
  • 太子奭が即位し元帝となる。翌年改元し初元元年、宣帝を杜陵に葬り廟号中宗とした。

王皇后(政君)の来歴

  • 王政君は王禁の次女で、幼少より貴相を占われていた。二度の婚約が相手の急死で流れた後、宮女として入内。太子奭の寵愛していた良娣の死後、宣帝の計らいで太子に選ばれた宮女五人の中から偶然選ばれ、幸運にも太子との間に男子(驁、後の成王)をもうけた。宣帝は驁を可愛がったが、二年後に崩御。元帝は驁を太子に立てるため、まず政君を皇后に立てた。

史高・宦官と蕭望之らの対立

  • 大司馬史高は実権を蕭望之・周堪に握られ次第に不満を募らせ、宦官の弘恭・石顕と結託した。望之らは宦官の中書職廃止を求めたが元帝は取り上げず、逆に劉更生(劉向)が宗正に異動させられた。
  • 会稽の鄭朋は望之に取り入ろうとしたが不興を買い、離反して許史一族の側につき、弘恭・石顕と結んで望之・周堪・劉更生を讒訴した。元帝の裁可を宦官らが「下獄」と偽って三人を投獄し、後に発覚するも史高の助言で三人は免官処分にとどまった。

蕭望之の死

  • 地震などの災異が続き、元帝は望之を関内侯に復し周堪・劉更生も呼び戻そうとしたが、弘恭・石顕の妨害で低い地位にとどめられた。
  • 劉更生が匿名で災異は弘恭・石顕のせいだと上書したが発覚し、更生は再び罪を得て庶人に落とされた。望之は連座を恐れた子の上書がかえって仇となり、群臣の非難を受けて逮捕命令が下る。望之は妻の制止を振り切り、門下生朱雲の勧めで毒をあおって自殺した。
  • 元帝は望之の死を深く悲しみ嘆いたが、弘恭・石顕を強く罰することはなかった。望之の子は爵位を継ぎ、周堪は光祿勛に登用された。

石顕の専横と周堪・張猛の左遷

  • 弘恭の死後、石顕が中書令として権勢を振るった。石顕は経学者貢禹に取り入り御史大夫に推挙するなど懐柔工作を進めた。
  • 御史大夫薛広徳は元帝の遊猟や乗船を諫め、聞き入れられた。史高・於定国・薛広徳は相次いで引退し、韋玄成が丞相となった。
  • 石顕は周堪・張猛(周堪の弟子)を排除しようと画策し、天変を口実に弾劾させた。長安令楊興、城門校尉諸葛豊は元帝の意向を見誤って周堪らを貶める発言をし、諸葛豊自身も前言との矛盾を元帝に指摘され庶人に落とされた。結局、周堪は河東太守、張猛は槐里令に左遷された。

評語

蕭望之・周堪・劉更生はいずれも経術で名を成したが人格の修養に欠け、望之は驕り、堪は地位に恋着し、更生は軽率な直言で自ら禍を招いたと評する。元帝の優柔不断が宦官・外戚に翻弄される結果を招いたとし、宣帝という賢父に対し元帝を「虎の子の犬」に例えて嘆く。