前漢演義第八十七回 功臣は麒麟閣に肖像を掲げられ、王昭君は使いに出て功を譲る (杰閣圖形名標麟史 錦車出使功讓蛾眉)
丙吉の死と黄霸の失策
- 蕭望之は御史大夫として丙吉に対抗心を燃やしたが、宣帝に忌避されて太子太傅に降格され、代わって黄霸が御史大夫となった。
- 丞相丙吉は寛大な人柄で知られ、民の喧嘩は問わずとも牛の喘ぎを気にかけたという逸話が残る(三公は陰陽の調和を司るべきという理由)。
- 丙吉の死後、黄霸が丞相となったが、郡守としての手腕はあっても宰相の器ではなく、珍しい鳥を瑞兆と誤認しかけたり、史高の太尉推挙を宣帝に退けられたりして面目を失った。黄霸の妻は元は貧しい家の娘であったが、相士の予言どおり貴顕の身となった逸話が伝わる。
呼韓邪単于の朝見と麒麟閣十一功臣
- 黄霸の死後、於定国が丞相となった。甘露三年、匈奴の呼韓邪単于が漢に入朝を願い出て、蕭望之の進言により諸侯王より上位の客礼で迎えられた。宣帝自ら甘泉宮で謁見し、手厚くもてなして帰国後は受降城に護送・駐屯させて支援した。西域諸国も漢の威に服し、郅支単于も遠く堅昆に移り朝貢するようになった。
- 宣帝は功臣十一人の肖像を麒麟閣に描かせた(霍光・張安世・韓増・趙充国・魏相・丙吉・杜延年・劉徳・梁丘賀・蕭望之・蘇武)。筆頭の霍光のみ官名を記さず、蘇武は生前の忠節にもかかわらず最後に配された。これは、蘇武ほどの人物ですら序列の末に置かれるほど漢に人材が多いことを示す意図であったとされる。
諸王家の動静と太子奭
- 武帝の子で唯一存命だった広陵王胥が、巫女に朝廷を呪詛させた罪を問われ、露見して自殺し、国は除かれた。
- 宣帝は淮陽王欽・楚王囂・東平王宇を封じたが、中でも母の寵愛もあって聡明な淮陽王欽を特に気に入り、儒学を重んじ寛容すぎる太子奭とは対照的だと評した。太子が「刑法より儒教を重んじるべき」と諫めると、宣帝は「漢家には王道と覇道を併用する制度がある」と一蹴し、内心では太子の廃立も考えたが、許皇后の悲劇を思い実行しなかった。
韋玄成の謙譲
- 丞相を務めた韋賢の死後、末子の韋玄成が門人の偽った遺命により爵位を継ぐことになったが、兄を差し置くことを憚り仮病で辞退しようとした。宣帝は事情を知って改めて優遇し、玄成はやむなく爵位を受けた。後に太子奭のため、謙譲の美徳を示す玄成が淮陽王欽の傅役に任じられた。
石渠閣の経学討議
- 淮陽王欽の学識を機に、宣帝は諸儒を石渠閣に集めて五経の異同を討議させ(施仇・周堪・孔霸・薛広徳・戴勝・厳彭祖・尹更始ら)、経術の隆盛をもたらした。
楚公主解憂の帰国と烏孫の内紛
- 烏孫に嫁いだ楚公主解憂は老齢を理由に帰国を願い、宣帝は使者を送った。
- 解憂の子・元貴靡を烏孫王に立てる約束であったが、夫の翁帰靡が急死し烏孫の大臣は先王の遺言により泥靡(狂王)を立てた。狂王は解憂を無理に妻とし、暴虐な統治で「狂王」と呼ばれた。漢の使者が狂王暗殺を謀ったが失敗、その子細沈痩が復讐に都を攻めたが、西域都護鄭吉の援軍で退けられた。
- 狂王は翁帰靡の子・烏就屠に襲殺され、烏就屠が自立した。
馮夫人の説得
- 漢は正統でない烏就屠を討つべく辛武賢の出兵を準備したが、西域都護鄭吉は損失を恐れ、解憂の侍女で烏孫事情に精通した馮嫽(馮夫人)を派遣して説得させた。馮夫人は烏就屠に漢との戦力差を説き、王号を退いて漢に帰順するよう促し、烏就屠はこれを受け入れた。
- 宣帝は馮夫人を正使として召し、錦車で烏孫に赴かせ、元貴靡を大昆弥、烏就屠を小昆弥として領地を分割させ争いを収めた。
- 元貴靡の死後、子の星靡が継いだ。解憂は老いて帰国を許され、宣帝に厚遇されたのち世を去った。馮夫人は星靡の後見のため再び烏孫に赴き、任を果たして功成った後、烏孫の右大将に嫁いだ夫のもとに留まったと伝えられる。
黄龍改元と宣帝の発病
- その後、広漢に黄龍が現れ改元し黄龍元年となったが、年の終わらぬうちに宣帝は病に倒れた。
評語
麒麟閣の十一人の中には杜延年・劉徳・梁丘賀・蕭望之のように格別の功績のない者も含まれる一方、蘇武ほどの高節の人物が末位に置かれたのは疑問であるとし、王者は本来威をひけらかさずとも遠人を服せしめるべきだと論じる。さらに馮夫人の錦車による功績を蘇武に並ぶものと称え、重男軽女の風潮のために麒麟閣に描かれなかったことを惜しみ、「天が人材を生んだのに、なぜ女を男に代えて用いなかったのか」と嘆く。