前漢演義第八十六回 匈奴の女が淫謀で事を構え、厳しい母が子の禍の兆しを見抜く (逞淫謀番婦構釁 識子禍嚴母知幾)
趙充国の帰還と羌族平定
- 宣帝は趙充国の屯田策を認めたが、許広漢・辛武賢が進撃を主張し、両将軍と趙卬(充国の長子)が三路から出撃した。許広漢と辛武賢はそれぞれ羌を討ち取り、充国自身は兵を動かさずとも羌の五千余人が自ら投降した。
- 充国は先零羌の大半がすでに降伏したことを上奏し、残兵の掃討のため軍の撤収を願い出て許された。
- 帰還の途中、旧友の浩星賜が「戦功を二将に譲って謙遜を示せば忌まれずに済む」と勧めたが、充国は「国家の大事のために利害を明言するのが老臣の務め」として自ら実情を直言した。
- その年秋、先零の酋長楊玉が部下に殺され首級が漢に届き、羌の一部が帰順。宣帝は降羌を安置し護羌校尉を置いたが、充国の進言で人選(辛湯を避け兄の辛臨衆を起用)が行われた。後に辛湯が任に就き乱暴な統治で羌の離反を招くことになる。
趙卬の死と充国の引退
- 手柄を得られなかった辛武賢は充国への恨みから、趙卬が張安世の任官の内情を漏らしたと讒言。宣帝は趙卬を宮中出入り禁止とし、卬は激憤して軍規を犯し投獄され、自ら首を刎ねて死んだ。
- 充国は息子の非業の死を悲しみ、自ら引退を願い出て許され、安車・黄金を賜り官を退いた。後に病没し、営平侯として諡された。
匈奴の内紛(顓渠閼氏の私通)
- 壺衍鞮単于の死後、弟の虚閭権渠単于が立ったが、先代の閼氏である顓渠を疎んじ別の閼氏を立てたため、顓渠は右賢王屠耆堂と密通するようになった。
- 虚閭権渠単于が病に伏すと、顓渠と屠耆堂は密謀し、弟の都隆奇を動かして前単于の一族を排除し、屠耆堂が握衍朐鞮単于として即位、顓渠は正室となった。
匈奴五単于の分立
- 西方を守る日逐王先賢撢は握衍朐鞮と不和で、漢の鄭吉に降伏を申し出た。宣帝はこれを歓迎し帰徳侯に封じ、鄭吉を西域都護として烏塁城に駐屯させ、西域三十六国を漢の支配下に置いた。
- 握衍朐鞮は日逐王の弟を殺すなど暴虐であったため人心を失い、虚閭権渠の子である稽侯■(呼韓邪単于)に攻められて敗死した。
- その後、屠耆単于・呼韓邪単于・呼掲単于・車犁単于・烏籍単于が並び立ち、匈奴は五単于に分裂する混乱に陥った。互いの攻伐が続き、最終的に呼韓邪単于が優勢となったが、屠耆単于の従弟が閏振単于を、呼韓邪の兄呼屠吾斯が郅支単于を称して抗争は続いた。呼韓邪はついに漢に朝貢を願い出て子を人質に送り、援助を求めた。郅支もまた漢に使者を送り、呼韓邪への援助をしないよう求めた。
蕭望之の弔問策
- 宣帝五鳳元年、群臣は匈奴討伐を主張したが、御史大夫蕭望之は「乱に乗じて災いを喜ぶべきでない」として弔問使の派遣を進言し、宣帝はこれに従った。望之は経学に通じ、丙吉の後を継いで御史大夫となった人物である。
蓋寛饒・韓延寿・楊惲の非業の死
- 蓋寛饒は剛直な人柄で、宦官の重用や刑罰偏重を批判する上奏を行ったが、禅譲をほのめかしたとして大逆の罪に問われ、自ら首を刎ねて死んだ。
- 韓延寿は民を教化した名太守であったが、御史大夫蕭望之と互いに不正を暴き合う形となり、宣帝の信任を得ていた望之側が優勢となって延寿は処刑された。子らに「官途につくな」と遺言して刑場に散った。
- 楊惲は財を軽んじ廉潔だったが、他人の過失を暴く性癖から怨みを買い、日食の際に不謹慎な発言をしたとして大逆の罪で腰斬され、一族は酒泉に流された。連座した京兆尹張敞も部下を独断で処刑し免官となったが、後に再び冀州刺史に起用された。
厳延年と母の先見
- 厳延年は苛烈な統治で豪族を次々処刑し「屠伯」と恐れられた。老母が河南に赴いた際、道中の処刑者の多さに驚き、延年を戒めたが聞き入れられず、母は「お前が処刑されるのを見たくないので先に帰り墓地を掃除しておく」と告げて去った。
- 翌年、府丞狐義が蝗害や平糴法をめぐる延年の暴言に恐れをなし、長安に赴いて延年の罪状十か条を上奏したのち自殺した。宣帝の調査で告発は事実と認められ、延年は誅殺された。母の予言が的中したことが知れ渡った。延年の弟たちは高官に留まり、東海では母を「万石厳嫗」と称えた。
評語
女性の乱行が家や国を滅ぼす例として、顓渠閼氏の私通が匈奴を五単于分裂の混乱に陥れたことを挙げ、漢の高祖・武帝が北伐しても屈しなかった匈奴が一婦人の乱によって衰えたことを嘆く。一方、厳母のように子を見抜く賢さを持つ女性もおり、延年一人が誅されても他の四子が高官を保てたのは母の教えによるものであろうとし、家を滅ぼすのも興すのも婦人次第であって、美人が必ず国を傾けるとは限らないと結ぶ。