前漢演義第85回 疏広・疏受は機を見て官を辞し帰郷し、上奏を重ねて屯田を進言する (兩疏見機辭官歸裡 三書迭奏罷兵屯田)
張敞の膠東相・京兆尹時代
- 張敞は山陽から膠東相に転じ、飢饉で盗賊が横行する膠東を、厳格な賞罰と王太后への遊猟自制の進言で鎮め治績を上げる。
- 京兆尹に転じた後は、変装した盗賊の首領たちを官吏に取り立てると偽り、宴会に集まった手下を一網打尽にする策略で治安を回復させた(服の背に密かに印をつけて確認する趣向)。
- 私生活では妻の眉を描いてやる逸話(「閨房の睦まじさは眉を描く以上のこと」との答弁)が世間の噂となり、京兆尹に八九年据え置かれ昇進しなかった。
二疏の辞官
- 太子太傅疏広・少傅疏受の叔姪は、太子奭の外戚(許広漢の弟舜)による監護に反対する諫言などで信任を得るが、「知足不辱」を説いて官職を辞し、故郷に帰る。
- 賜られた黄金を惜しみなく使い切り、子孫のために蓄財しない考え(「財が多ければ賢い子孫の志を損ない、愚かな子孫には害となる」)を語り、そのまま生涯を終えたという逸話が語られる。
王吉・貢禹の直言と方士排斥
- 張安世の死後、諫大夫王吉は外戚の専権や宣帝の奢侈な祭祀・方士信仰を諫めるが容れられず辞職。棗の木を巡る妻との逸話(「東家有樹、王陽婦去」の里謡)も紹介される。
- 益州刺史推薦の文人王褒は「聖主得賢臣頌」で寵を得るが、金馬碧雞という霊獣を求める方士の言に従って益州へ赴き、道中の暑気あたりで急死する。これにより宣帝は方士への迷信をようやく改める。
西羌との戦い(趙充国の活躍)
- 先零羌の酋長楊玉が反乱を起こす。義渠安国の失策(先零に譲歩した上、後に一方的に虐殺し反乱を招く)により漢軍は敗走。
- 高齢の趙充国が自ら出征を志願し、金城で慎重に渡河・進軍しつつ挑発に乗らず、羌の内部離反を待つ戦術で先零を撃破。罕■には武力を誇示するのみで攻撃せず、和睦させることに成功する。
- 酒泉太守辛武賢が罕■への同時攻撃を主張したが、趙充国は先零を先に討つべきと反対、最終的に宣帝もこれを容れる。
- 先零討伐後、趙充国は騎兵を退かせ屯田による持久策を三度にわたり上奏(十二の利点を列挙)。当初反対が多かった群臣も次第に賛同に転じ、最終的に丞相魏相も支持し、宣帝は屯田策を採用する。
評語
- 二疏の辞官については称賛論と批判論の両方を紹介し、いずれも一理あるとしつつ、恋々と地位に留まり陥れられた蕭望之と対比して二疏の身の処し方を評価する。
- 趙充国の羌対策・屯田策を「国家根本之計」として高く評価し、宣帝がこれを信任して用いたことを「明良の際会」と讃える。