前漢演義第84回 宮女の才知に恩をもって報い、良吏を抜擢し次々と功績が伝わる (詢宮婢才識酬恩 擢循吏迭聞報績)
張安世の慎重さと家風
- 張安世は霍氏族滅の際、孫娘が霍氏姻戚であったため連座を恐れて憔悴するが、宣帝は特赦して安心させる。兄・張賀の遺児(孤孫の霸)や養子彭祖への処遇を巡り、安世は繰り返し辞退・減封を願い出るなど、終始謙抑な態度を貫く。
- 安世は倹約に努め、妻にも紡績をさせるなど質素な家風を保ち、これが張氏が霍氏より長く栄えた要因として語られる。子の張千秋が軍事の報告で霍禹より優れていたことに、霍光自ら「霍氏は衰え張氏は興る」と嘆じた逸話も添えられる。
丙吉の恩と循吏の登用
- 宣帝を実際に救った丙吉は功を誇らず沈黙していたため、宣帝は長らくその恩を知らなかった。かつての乳母(宮婢の則)の上書がきっかけで丙吉の功績が明らかになり、丙吉は博陽侯に封じられる。乳養した趙・胡二婦の子孫にも褒賞が及び、許・史両家の子弟も併せて封じられる。
- 続いて能吏の登用が語られる。
- 朱邑(大司農):桐郷の吏として民に慕われ、死に際し「桐郷に葬れ」と遺言し、そのとおり祠廟が立てられた。
- 龔遂(水衡都尉):渤海の飢饉・盗賊を「治乱民如治乱繩」の方針で鎮め、武器を売って農具・牛を買わせる撫民策で治績を上げた。帰京後、随行した議曹王生の助言で「功は聖主の徳化による」と答え宣帝に称賛された逸話も語られる。
- 尹翁歸(右扶風):東海太守として豪猾を厳罰し治績を上げ、東海人於定国への私的口利きも固辞するなど公正さを保った。
- 黄霸(潁川太守→京兆尹):密偵の逸話(属吏の道中の失態まで見抜いていたように装う)、老いた聾の県丞を庇う逸話などで名声を得るが、大局的な力量には限界があったとも評される。
趙広漢の失脚
- 京兆尹趙広漢は私怨から邑人を殺した咎で丞相魏相に調べられ、対抗して魏相の家の婢の自殺を口実に魏夫人を強引に尋問するなど強引な手段に出るが、廷尉于定国の調査で事実無根と判明し、司直蕭望之にも弾劾され、腰斬に処される。京兆の吏民は助命を訴えたが宣帝は許さなかった。
張敞の登用と昌邑王賀の後日談
- 趙広漢の後任は短命に終わり、潁川の黄霸も細事で糾弾されて京兆を離れ、最終的に膠東相の張敞が京兆尹として長く務め治績を上げる。
- 張敞はかつて昌邑王賀(廃位後、山陽に幽閉)を監視する任にあった際、賀の言動を注意深く観察し反乱の意志なしと判断して報告した経緯が語られる。宣帝は賀を海昏侯に封じるが、後に異志の噂(元太守属吏孫万世の煽動)が立ち、封邑を削られ、まもなく病死。国も除かれたが、元帝の代に子の代宗が海昏侯に再封された。
評語
- 丙吉が功を誇らず、宣帝がその恩に報いたことを「以德報德」の模範として称える。朱邑・龔遂・尹翁歸・黄霸・張敞ら循吏の輩出を、宣帝が人材登用に長けていたことの証とし、「為政在人」の理を結論づける。